ヨハネ20:19-29

見る事、信じる事、生きる事

ヨハネ『20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。』

 弟子たちの多くは、週の初めの夕方に集まっていました。マグダラのマリアは、朝から夕方にかけて、弟子たちを探しては、イエス様の言葉を伝えたのでしょうか? それとも、弟子たちは最初から一緒のところにいたのでしょうか? 弟子たちは、イエス様が復活したことを、聞いて集まってきたのならば、そこには疑い深いトマスが来ていないはずですし、最初から一緒にいたのならば、そこにトマスが居るはずです。やはり、マグダラのマリアが弟子を探して回って知らせたのだと思われます。

 また、弟子たちが「ユダヤ人を恐れて」と言うのは、イエス様の遺体を弟子たちが隠したと疑われていると思ったからでしょう。弟子たちは、イエス様の遺体が無いことを知ると、身の危険に気が付いたのでした。

.イエス弟子たちに現れる

 弟子たちの集まっている所の真ん中に、イエス様は現れました。 「あなたがたに平和があるように」そう言って、イエス様は手とわき腹とをお見せになりました。さぞかし、弟子たちは喜んだことでしょう。しかし、喜んだのは、イエス様が手と脇腹をお見せになった後です。どうして、イエスが現れた時、そして「あなたがたに平和があるように」とイエス様がおっしゃった時に喜べなかったのでしょうか?もちろん、急なことだったので、弟子たちは気が動転して、落ち着くのに時間がかかったのかもしれません。ですが、マグダラのマリアが、うしろに現れたイエス様の声を聴いて、イエス様であるとわかったことと比べてください。

 弟子たちは、その真ん中に立たれたイエス様を見て、そして声を聴いて、まだ喜んでいないのです。そして、イエス様が手と脇腹の傷、十字架にかかったイエス様であることを自らお示しになりました。そうして、その「しるし」を見た弟子たちは、ようやく主を見て喜んだのです。イエス様の十字架の傷跡を見て初めて、イエス様が神様であることを受け入れ、そして復活したことを信じるようになったのです。

.弟子たちの派遣

 イエスは言われました。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」  イエス様は、確かな信仰をもった弟子たちを見て、改めて弟子たちを伝道のために派遣することを宣言します。

 イエス様はそう言って、弟子たちに息を吹きかけられました。息は、創世記にあるように命そのものを表します。創世記『2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。』

そして、「聖霊を受けて、罪を赦しなさい」と命令されたのです。

.疑い深いトマス

 ディディモとは、ギリシャ語で双子のことです。トマスとは、イエス様が使っていたと言われているアラム語で双子を指します。トマスは、先に弟子たちにイエス様が現れた時に、そこにはいませんでした。疑い深いトマスは、イエス様が復活したことをマグダラのマリアから聞いたとしても、すぐに皆のところに集まらなかったのでしょう。それでも、時間がたった後に合流します。ほかの弟子たちは、「わたしたちは主を見た」と言いますが、疑い深いトマスは言いました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 他の弟子たちは、イエス様のご命令を受け止め、出発したいのですが、トマスの説得にほどほど困っていたことが想像されます。そして、8日間も家の鍵を閉めて、ほかの弟子たちはトマスと一緒にいたわけです。

戸には、みな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました


ヨハネ『20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」』

 トマスは、イエス様の復活をほかの弟子たちから聞いただけでは信じませんでした。しかし、イエス様の姿、イエス様の声、そしてイエス様の傷を見て信じたほかの弟子たちに対し、トマスは違っていました。疑い深いトマスは、イエス様の傷跡を手で触れてみなければ信じられないと言っていたにもかかわらず、イエス様の姿、そして声、イエス様の話を聴いて信じたのです。トマスは、イエス様を見るまで信じませんでした。しかし、こんなに疑い深いトマスも、イエス様が神であることを信じた後には、前に抱いていた疑いを確認しようとしてはいません。(よくよくイエス様の傷を改めたとは聖書に書いてありません)少なくとも、トマスは、それ以上にイエス様にしるしを求めることはしませんでした。トマスを含め弟子たちは、復活されたイエス様を見るまで、心の底からは信じていなかったのですが、信じるようになりました。そして、弟子たちは、もう、イエス様にしるしを求めることをしなくなります。

 弟子たちですら、信じるということは難しかったということですが、私たちはイエス様に直接お会いすることはできません。イエス様を見るためには、直接ではなく誰かを通して、または、出来事の中にイエス様の恵みを感じ取ることになります。弟子たちは、この後伝道に出るわけですが、伝道する相手にイエス様と直接会わせるわけにはいきません。また、そこにイエス様がおられることを証明することもできません。ですから弟子たちは、その伝道の働きの中で、イエス様がおられることを理論的に説明して回ったのではなく、聖霊に導かれて「イエス様の証」をお話していたのです。