マタイ12:9-21

神様のみ旨

2023年 528日 主日礼拝  

神様のみ旨

聖書 マタイ12:9-21

今日は、ペンテコステです。日本語では聖霊降臨日。これにちなんで、イエス様の霊に関連したマタイによる福音書から、お話ししようと思います。ユダヤ教では、「安息日を守る」ことは律法の中でも最も大切な戒めのひとつです。旧約聖書の 創世記には、その由来がこのように書かれています。

創世記『2:1 天地万物は完成された。2:2 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。2:3 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。』

 神様が天地創造の仕事から離れ、手を休めた祝福された特別の日ですから、このように命令されていました。

出エジプト『20:8 安息日を心に留め、これを聖別せよ。20:9 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、20:10 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。』

一方で、神様は、このような苛烈な戒めを降しています。

出エジプト『35:1 モーセはイスラエルの人々の共同体全体を集めて言った。「これは主が行うよう命じられた言葉である。35:2 六日の間は仕事をすることができるが、第七日はあなたたちにとって聖なる日であり、主の最も厳かな安息日である。その日に仕事をする者はすべて死刑に処せられる。35:3 安息日には、あなたたちの住まいのどこででも火をたいてはならない。」』

 かなり、厳しい戒めです。しかし、実際問題として、仕事をしないで、そして火をたかないで一日を過ごせるものではありません。だから、何をするのが良くて、何が悪いのかを教える人が必要でした。それをファリサイ派の律法学者が担っていたのです。例えば、金曜日の日没から安息日が始まりますから、金曜日の日没前に料理を作ってしまいます。ところが、その時の熾火を使って安息日の最中でも煮込み程度の料理はゆるされます。火にかけっぱなしとはいっても、料理は仕事なのですが、これはぎりぎりセーフだと言うことです。また、食器に装うこと、食べることも許されます。当然、人間も家畜も生きていますから、必要な世話を焼くことは許されました。一般の人々にとって安息日は 食べて、礼拝に出て、のんびり休息して、命を養う日です。一方で、祭司たちは、安息日こそ礼拝をする日ですから、仕事をしました。そのほかにも例外はあって、命を助けることなどは許されるわけです。

 このように柔軟な運用をしていたのですが、イエス様が地上にいた時代、ファリサイ派と呼ばれる、最もユダヤ教の中心であった人々が、律法を守ること,特に安息日や断食,施しを行うことや宗教的な清めを強調しました。ですから、ファリサイ派の人々は、安息日には、「これはしてはならない」と人々を指導する「仕事」をしていましたし、宗教的な誓いを立てての断食もしました。また、目立つようにして施しを行い、汚れることをきらって宗教的に清いとされている人々としか付き合わないわけです。これが出来るのは、ファリサイ派の人々が裕福だからです。普通に仕事をしている人では、断食をすることも、施しをすることも、宗教的に清めることも可能ではありますが、そうそうやってられるわけではありません。結果として、ファリサイ派の人々は、律法に解釈を加え自分らは守れるけど、一般庶民は守れない「掟」を作り上げたのです。その「掟」は、「ファリサイ派の人々が尊敬される」ための道具となってしまったのです。ファリサイ派を指すヘブライ語「ペルシーム」は、「分離した者」の意味です。この名称の由来については恐らく「律法を守らない一般の人から自分たちを分離した」ということだと思われます。このように、ファリサイ派の人々にとって「律法」とは、ファリサイ派の人々のための「掟」でありました。ですから、イエス様のような聖書を教える教師が、ファリサイ派の人々が決めた「掟」を無視するのは、耐えがたいことだったのです。そういうプライドもあって、ファリサイ派の人々は、自分らの決めた「掟」を守らせようとします。ところで、「掟」とは何を指すのでしょうか?。ファリサイ派の人々の決めた「掟」は、律法のことのようで、実は律法ではありません。律法とは、「神様の意志による教えと戒め」のことであります。ですから、ファリサイ派の人々の意志で決めた「掟」は、律法ではなく、律法に似た「ファリサイ派の人々を称賛するための基準」だったのです。


 そこに、イエス様という ナザレ人を中心に、その「掟」に囚われない、「安息日」に仕事をするような群れが現れたのです。ファリサイ派の人々は、イエス様を訴えようとします。イエス様が会堂に入った時も、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか。」と彼らは尋ねました。原語を直訳すると、「安息日に治療をするのは合法ですか。」です。律法によると死刑になることが明らかなのに、こんな質問をしたのです。たぶん、「安息日に癒しをするのは合法である」とイエス様に言わせたかったのでしょう。そうすれば、イエス様を偽教師として処罰出来ます。一方で、癒しをしないように忠告したとも言えますから、その忠告の直後に癒しをすれば、訴えることが出来ます。そして、もしイエス様が癒すことを諦めたなら、イエス様の評判が落ちるとファリサイ派の人々は考えたのでしょう。もともと、片手の萎えた人はイエス様を陥れるためにファリサイ派の人々が用意したのかもしれません。

 イエス様は、ファリサイ派の人々が悪意を持っていることを理解していましたから、律法の解釈はしませんでした。それにしても、ファリサイ派の人々の悪意は、「神様のみ旨」からも常識からも大きく かけ離れています。ですから、当たり前のことをそのまま返します。 『安息日に穴に落ちた一匹の羊を手で引き上げて助けてやらない者がいるだろうか。それが人間であるなら、なおさらであろう。』

とイエス様は答えます。さすがに、ファリサイ派の人々は反論できません。そして、「片手の萎えた人」に向けて言うのです。「手を伸ばしなさい」。 イエス様は、「安息日」に病気を癒すことは死罪にあたると抗議している人々の目の前で、癒しの業をしました。 一方で、ファリサイ派の人々は、「片手の萎えた人」の癒しそのものについては、興味がなかったようです。それよりも、イエス様が、忠告を聞かずに「安息日に癒しをした」ことに怒りを覚えたのです。つまり、「穴に落ちた羊」を引き上げる事には、無言の同意をしてしまったファリサイ派の人々ですが、「片手の萎えた人」が癒されたことにはあからさまに不機嫌でした。この様子から、ファリサイ派の人々は、明らかに「片手の萎えた人」を「穴に落ちた羊」より低い存在として見ていたのです。イエス様は違います。それが誰であっても、憐れみをくださって、そして助けてくださいます。 

 さて、イエス様の言う安息日に「穴に落ちた羊」とは、この会堂に足を運んでいる「片手の萎えた人」をたとえた言葉です。このファリサイ派の人々の態度から見ても、人々から疎まれ、排除されていた人だったのでしょう。当時は、病気や怪我は、神様からの罰だとの考えがありますから、「片手の萎えた人」を人々は、一段低く見ていたと言えます。ファリサイ派の人々は、イエス様を陥れるための囮として「片手の萎えた人」を使いました。憐れむべき者を、悪だくみに利用してさらしたのです。「神様のみ旨」とは反対のことをするファリサイ派の人々に、イエス様は深い悲しみを覚えたことでしょう。「片手の萎えた人」をいたわらない人々。そして、「癒しは仕事だから安息日に癒してはならない」と訴えておきながら、イエス様を貶めるために安息日に悪だくらみを働く人々。神様の前に正しくありません。ファリサイ派の人々は、自分の都合や感情を優先させているため、「神様のみ旨」に向き合おうとしないのです。


 イエス様は、そこで「片手の萎えた人」を憐れんで、手を差し伸べます。 神様の罰を受けた者とみなされていた「片手の萎えた人」の手を公の場で治されたのです。「片手の萎えた人」はこの時、手が使えない不自由さと、神様の罰だとの そしりから解放されました。とても良いことがイエス様によってもたらされたのでした。その良い場面に居合わせながら、ファリサイ派の人々は、ますますイエス様を殺そうとたくらみます。しかし、この出来事で訴えることも出来ません。「安息日に穴に落ちた羊」を助けることを、ファリサイ派の人々は黙認してしまったからです。この場にいても何もできないと悟ったファリサイ派の人々は、会堂を出てイエス様を殺す方法を相談しました。このようにイエス様は、安息日の罠から逃れました。そして、ファリサイ派の人々の相談、イエス様を殺す相談を知り、会堂から立ち去ります。群衆もイエス様についていきます。その群衆に イエス様は、ご自身の事をあまり話さないようにと 戒めます。また同じような、罠にかけられないためにです。ここで、福音書記者は解説を入れました。これは、イザヤ書42:1-4の一部の引用です。この預言が実現するのは、まだその時ではなかったのです。ですから、その時が来るまでは目立たないように心掛けなければなりません。

マタイが引用したイザヤの預言は、イエス様の事でした。マタイは、イザヤが預言したメシア(救い主)こそイエス様の事であると、ここで宣言します。そして、イエス様の霊は神様の霊であることを証しているのです。


12:18 「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。12:19 彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない。12:20 正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。12:21 異邦人は彼の名に望みをかける。」


 このマタイによる福音書の新共同訳は、イザヤ書42:1-4の訳と比べても秀逸です。でも、現代の私たちには難しいので、すこしだけ易しくしてみました。


 イエス様は神様が選んだ僕です。神様のみ心にかなった愛する者でもあります。神様はそのイエス様に神様の霊を授けます。イエス様は、世界中に神様の義を知らせます。イエス様は争いませんし、叫びません。そして、世界中の人が神様を信じるときに再び来ます。イエス様は、心の傷ついた人に寄り添い、心の中の灯りを消さないように慰めと平安をくださいます。イエス様の名前によって、世界中の人々が希望を持ちます。


 私たちは、イエス様を信じていますから、このイザヤの預言のように折れそうな心も慰められ、そしてイエス様に寄り添っていただいていることに信頼しています。つまりイエス様から、平安をあたえられています。すべては、神様が罪多き私たちを憐れんでくださったから始まりました。神様のみ旨で、私たちは、イエス様の十字架での犠牲と、3日目の復活によって、その罪を赦されました。神様のみ旨は、私たちのためにイエス様をこの世に降し、私たちを救うことです。私たちは、罪人であるにもかかわらず、イエス様を信じることで、義しい者として受け入れられているのです。

この神様のみ旨に感謝の祈りを、そして感謝の賛美を 捧げてまいりましょう。