ローマ3:9-20

正しい人は一人もいない


◆正しい者(ただしいもの) 神との正しい関係にある人間。聖書では「正しい」という言葉は,本来,神について用いられ,単に道徳的・社会的正義といった価値を意味するものではない。神は正しい神であり,人間にも正しさを要求される。しかし,人間は神の律法に背いて,神との正しい関係から堕落してしまい,人間の力だけでは,これを回復しえなくなった。預言者たちは,これが来るべき救い主(メシア)によって実現されると教えた(イザ 53:11)。人間が正しい者とされるのは,神の救いの働きにより,キリストを信じる信仰による(ロマ 3~5章)ので,世界のすべての人がその恵みにあずかることができるようになった(ロマ 5:18)。(新共同訳聖書語句解説)


1.ユダヤ人は優れているか?

 イスラエルは歴史的に、民が神様に対して不従順で、かたくなでありました。イスラエルの神に選ばれた民であり、割礼を受けている民ではありますが、罪の下にいると言う意味では、ギリシャ人と何ら違いはありません。詩は引用です。(詩篇5:9;詩篇10:7;詩篇14:1-3;詩篇36:1;詩篇140:3;箴言1:16;イザヤ59:7)

詩篇『14:3 だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。』

 たしかに、旧約聖書からすぐさま引用してくると言う点では、ユダヤ人は優れていたのでしょう。しかし、それは正しいかどうかには、何の影響を与える物ではありません。


2.皆、罪の下に

  正しくない者でも、努力すれば正しい者になれるでしょうか?

 迷い役に立たない者→神様を探し求める者→神様の前に悟る者→正しい者 

実態として、この正しい者への道筋を通らず、善を行わないだけではなく、神を畏れなくなっていきます。

 善を行う者はない→舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある→神への恐れがない (罪の下に)

 パウロはこの箇所で、人間一人一人のありのままの姿を証しています。人は神様の前では、罪深い存在のままで改善されないのです。もちろん、私たちは完全無欠な存在であるわけありません。しかし、自分が神様の前で罪深い存在であり、「天国へは入れない」という宣告を受けていることを認めているでしょうか。認めないならば、罪人として悔い改めない、つまり神様からの救いの手を拒否することになります。


3.罪人と認めさせる

 19節と20節でパウロは、なぜ彼がこのように人々の罪深さと悪さについて語ってきたか、その理由を明らかにします。パウロは、人々のことをあれこれ批判したいわけではありません。パウロの意図は、すべての人間の口を塞ぎ、彼らを神様の御前で罪人と認めさせることでした。

 律法ではファリサイ派の人々の口を封じることが出来ませんでした。そのため、その人々は自分の罪深さを少しも理解せず、頑迷に律法に留まりました。一方、罪を認める徴税人の口は封じられ、その人は神様の前に義とされました。(「ルカによる福音書」18:9-14)

 このように私たち人間は、「自分は善い人間であり、神様に対しても十分認めていただけるくらいには善い存在だ」、と思い込んでいます。律法を通して、神様はこの勘違いを私たちから取り除こうとされたのです。神様が私たちに対して何を求ているか、それは、私たちが罪人であることに気がつくことであります。そして、この罪によって、私たちは裁かれるしかない身であることを知ります。私たちが神様の御旨に従わず、逆らっていること。また神様の怒りのなか「まだ裁かれずにいるのは、神様の憐れみ」であることが少しずつわかってきます。もしも神様が私たち自身の罪に対して裁きを下すならば、私たちの前に待ち受けているのは神様からの罰と怒りと地獄だと私たちは気がつきます。このように律法は私たちに罪の自覚を与えるはずのものでした。しかし、神様が私たちに気づかせたいのは罪の自覚だけではありません。罪を自覚したところで、罪を犯さなくなるわけではないことです。律法は、人の罪を裁く基準となりますが、罪から私たちを救うような働きはしないのです。


4.神の前で義とされる

 神様と私たちが正しい関係を保つことを「義とされる」と呼びます。正しい関係とは、神様は無謬(むびゅう:「理論や判断などに、誤りがないこと」が『無謬(むびゅう)』 です。)であり、私たち人間は罪人であるという認識に立った関係と言えます。つまり、私たち人間の罪がなくなることではなく、罪人であるにも関わらず、罪を赦され、そして神様の裁きを永遠に猶予されたのです。それは、イエスキリストの故にであります。イエス様は、罪が無いにもかかわらず、私たちの罪を背負って亡くなりました。私たちの罪を赦すための代償となられたのです。そのことを信じる私たちは誰でも、無条件に罪を赦されるのです。そして、イエス様は死を克服し、甦りました。そのため、私たちには永遠の命が与えられたのです。律法の前では、義とされようもなかったのですが、イエス様を信じることで、私たちは神様の前に義とされたのです。全き正しい方であるイエス様が、罪だらけの私たちと神様の間に入り、そして罪人として死なれました。この、イエス様でなければ私たちを神様にとりなすことは出来ません。

 神様は、イエス様のとりなしによって、罪ふかい私たちをも無罪扱いにしてくださいました。無謬なる神様と罪人であり続ける私たちは、私たちの善い行いだけでは救われないのです。それなのに、私たちが救われるのは、神様の一方的な憐れみであり、愛なのです。そして、イエス様も神様のご計画に従って、十字架での死を受け入れ、私たちを救いに導いてくださいました。イエス様は、神様も私たちの事も愛しておられるからです。