Ⅰヨハネ2:28-3:3

 神の子と呼ばれる

 2024年 2月 25日 主日礼拝

神の子と呼ばれる

聖書 ヨハネの手紙一 2:28-3:3          

 先週から、受難節を迎えています。受難節第6週が受難週で、3月24日に始まります。その礼拝まで、受難と復活、そして再臨と永遠の命についてのお話をしているところです。

 今日の聖書は、ヨハネの手紙一です。この手紙は、福音書を書いた使徒ヨハネと同一の人物が書いたとされています。いずれも、AD90年以降に書かれたとされており、新約聖書の中でも最も新しい部類に入ります。このころは、異邦人の信徒が相当に増えていますので、ユダヤ人中心の教会から、異邦人中心の教会に変化した時期にあたります。解説書によると、ヨハネの書いたものは、「イエス様と対立するユダヤ人は敵である」との印象があるそうです。その一つの理由は、反キリストです。イエス様がキリストであると認めない人々の事を反キリストと言います。ヨハネ自身がこのような記事を書いています。 

Ⅱヨハネ『1:7 このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。』

 ヨハネがこのように書いたのは、伝統的なユダヤの教えに惑わされずに、イエス様をキリストと信じるように、教えるのが目的だったと言えます。

そのことが、垣間見えるのが今日のこの聖句です。

『2:28 さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。』

イエス様の内にとどまっていれば、再臨のとき、イエス様がキリストであることを確信するでしょう。逆に、イエス様の内にとどまっていなければ、再臨のとき、「なぜ、イエス様の内にとどまらなかったのか?」と 悔やむことだと思います。そして、イエス様が正しい方であることを知っているならば、イエス様は神様から出た方だとわかっているはずです。なぜならば、義を行う者は、神様からのみ、生まれるからです。その理由からも、イエス様は神の子なわけです。同様に、義を行う者たちも神様の子たちであります。ところで、今説明しました29節の文言には、神は出てきません。翻訳者が「彼」という言葉に、御子や神を当てはめていたのが実態であります。この手紙には、神、父、子と言う言葉がほとんどなくて、「彼」と表現されています。その彼とは、文脈からイエス様を示していることが読み取れます。それを、新共同訳では御子と訳します。その法則にのっとれば、ここはこんな風にも訳せると思います。

「あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、御子から生まれていることが分かるはずです。」

このように、御子と神様を区別していません。たぶん、区別する必要が無いほど、「イエス様が神様である」との認識だったのだと思われます。


 さて、神様がどれほどわたしたちを愛してくださっているか、考えてみてください。それは、私たちが神の子たちと呼ばれるほどです。ここで、ヨハネは、「私たちは神の子たちと呼ばれる」と記しています。ヨハネは、父なる神の御子イエス・キリストが正しい方であるように、義を行う者も神様から生まれた者であると言うのです。ここで、神様から生まれるとは、水と霊によって新しく生まれることを意味しています。このことは、『ヨハネによる福音書』の第3章で、イエス様が、ユダヤ人の議員であるニコデモに教えた記事にあります。

ヨハネ『3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。』

 イエス様は、「水と霊とによって生まれなければ神の国に入ることはできない」と言いました。この「水」とは「バプテスマ」のことを指しています。「イエス・キリストは神の御子であり、救い主です」と公に告白して、バプテスマを受ける。そのとき、その人は神様の霊である聖霊によって、新しく生まれるのです。私たちも、公に信仰を言い表しバプテスマを受けた者として、聖霊によって新しく生まれた者なのです。そのようにして、私たちは神の子とされたのです。神の子となる資格は、「イエス・キリストは神の御子、罪人である私の救い主である」と公に言い表して、バプテスマを受け、聖霊によって新しく生まれる者に与えられるのです。


 『 御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。』

 イエス・キリストと神様を知らない人々は、私たち一人一人が神の子であることも知りません。多くのユダヤ人たちは、イエス様が神の子であることを知りませんでした。それと同じように、イエス様を知らない人々は、私たちが神の子であることも知らないのです。ですから、私たちを神の子と呼ぶ人々は、イエス様の事を知っていることになります。

 神様は、私たちを神の子とするために、神様ご自身の御子を人として遣わして、その御子イエス・キリストを十字架の死へと引き渡されました。私たちに対する神様の愛は、独り子をお与えになるほどの愛であるのです。そのような大きな愛を与えられて、私たちは神の子とされたのです。罪深くて、とても神の子とはなり得ない私たちが、神の子とされたこと。それは、父なる神様の愛の賜物なのです。父なる神様は、私たちを愛し、私たちを神の子とするために、独り子イエス・キリストをお降しになったのです。


 そして、ヨハネはイエス様の再臨について書きました。

『3:2 愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。』

 ヨハネは、「御子が現れるとき、神の子である私たちは、御子に似た者となる」と言います。私たちが御子に似た者となる。このことは、神様の最初からの目的でありました。神様は私たち罪人を、御子の姿に似たものにしようとしました。神様は、あらかじめ召し出す者を定め、その召し出した者たちを義とし、義とした者たちに栄光をお与えになったのです。

 私たちは、今すでに聖霊を与えられ、神の子とされています。けれども、私たちの内には罪が残っていますから、神様の前に完全に義しいとは言えません。しかし、再臨の時に聖霊が働いて、私たちが霊の体として復活するとき、神様の前に完全に義しく変えられるのです。イエス様は、いつも神様の御心に適う正しいことを行いました。そのイエス様と同じように、私たちはいつも神様の御心に適う義しいことを行う者となるのです。私たちは、体が御子イエス・キリストに似た者となるだけではなくて、存在そのものが御子イエス・キリストに似た者となるのです。


 『御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。』とあります。

 これは、「人は見たものに似たものとなる」という考え方によるものです。私たちは、イエス様の姿を、また、その顔を見たことはありません。聖書と聖霊が証しするイエス・キリストを信じていますが、その姿を見たことはないのです。しかし、御子が現れるとき、私たちは御子イエス・キリストをありのままに見ることができるのです。


『3:3 御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。』 

 「この望み」とは、「御子が現れるとき、御子をありのままに見て、御子に似た者となるという望み」を指します。御子が再臨するとき、御子をありのままに見て、御子に似た者となる。これこそ、神の子と呼ばれる私たちの望みなのです。その望みを持つ私たちは、御子が清いように、それに見習って自分を清めるでしょう。自分を清めるとは、過去の汚れを落とし、そしてこれから神様に従って生き、罪を犯さないようにするということです。御子イエス・キリストは罪を犯しませんでした。その御子イエス・キリストのように、私たちも罪を犯さないようになるのです。


 ところで、皆さんはイエス様の再臨に備えているでしょうか? もし、備えるとしたらどのようにしたらよいでしょうか?普通に考えると、イエス様に会うためには、まず身を清める事、服装を整えることを考えるでしょう。それも、会う前にです。ひどく汚れたままで、イエス様の前に出ると言うことは、したくないはずです。ですから、備えが必要です。御子に望みをかけている私たちは、御子イエス・キリストにお会いする備えを、今、この地上でするのです。そして、その備えとは、御子のように、清くなることです。それは、神様の掟に背かないことであります。それが、将来に対する備えであります。過去の犯した罪は、イエス様の十字架によって贖われています。ですから、罪に対する悔い改めと、十字架による赦しを心にとどめながらも、将来イエス様に似た者となることの希望を持ちます。そのために、罪を犯さないように、そして、清くありたいですね。

 イエス様が来られるとき、イエス様をありのままに見て、イエス様に似た者となる。そう聞いて思うかもしれません。「それが約束されているなら、この地上では少しくらい罪を犯してもよい」と。しかし、そうではないのです。なぜなら、私たちは父なる神様の大きな愛をいただいて、既に神の子とされているからです。神の子である私たちは、イエス様に似た者になりたいと、望んでいます。ですから、この地上でイエス様が歩まれたように歩みたいのです。私たちの罪のために十字架で死んでくださった御子イエス・キリストが、再び天から来てくださる。その御子イエス・キリストにお会いする備えとして、私たちはいつもイエス様の内にとどまり、イエス様が清いように、自分も清くなって歩んでいきたい。この思いは、神様の偉大な愛と、私たちを神の子とされたイエス様の恵みに対する、応答なのであります。決して清くはない私たちですが、日々の生活の中で清められて、イエス様に似た者となれるよう、神様に祈ってまいりましょう。