2020年 5月 24日 主日礼拝
『神は、避けどころ』
聖書 詩編46:2-12
[セラ という文字が何を意味しているのかを、調べてみました。礼拝を中断して、心を高めることの様です。
******************************
סֶֽלָה׃ (se·lah.) セラ(selah):ほめそやす、強める、高める
(イスラム教では、カアバ神殿に向かって祈ること)
סָלָה (saw-law')カラ(kalah):中断(光を当てる、次に渡す)
セラはカラから始まる :(凡例)kalah-selah
******************************
今日は、詩編からみ言葉を選びました。この46編は、宗教改革をした、マルチン・ルターが作詞作曲した讃美歌「神はわがやぐら」(新生538)のもとになったテキストです。今日の箇所の中にも、『46:2 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。』『6:8,12 ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。』と3度も同じ表現が出てきています。もともと、詩編はユダヤ教の礼拝の中で讃美に用いられていたものをバビロン捕囚のころに、まとめられたものです。
特にルターは、会衆が歌う讃美歌(コラール)を作ることによって、会衆への
み言葉の浸透を図りました。詩編は、そういった意味からも、讃美歌にふさわしかったのでしょう、当時は、詩編からとったコラールが主に用いられました。そのころも、聖歌隊やオルガンはあったのですが、会衆と一緒に賛美する形はとっていません。旋律だけで伴奏など付けずに、言葉をひとつづつはっきりと発声する、いわゆるコラールの歌い方が出来ました。ルターは、み言葉を大事にし、会衆の心にに良く一つ一つの言葉を刻み込むという役割を讃美歌に託しました。その歌詞のほとんどには、詩編が用いられました。
ところで、今日の聖書を読んで〔セラ とは何か? とお思いになったのではないでしょうか?
そもそも、ユダヤ教の礼拝の習慣だそうです。聖歌隊が賛美するときに、セラの書いてある所で中断して、主への気持ちを高め、そして次の節に進むのだそうです。
ですから、セラと書いていたら、一度立ち止まって主を褒め、そして次の節を読んでいくのが良いでしょう。
さて、今日のみことばです。
『46:2 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。』
この部分を読み取ると、「苦難のときを迎えているから助けてください」とお願いしているのではなくて、「必ずそこにいまして助けてくださる」との確信を歌っていることに、気づかされます。砦とは、戦争の時の避難先として、「立てこもる」場所ですから、「ここ(神様)に立ち返るならば、守られる。そして助かる。」、ここ(神様)の所に逃げ込めば大丈夫だと歌っているのです。たとえ災いが、地震や津波であったとしても、神様を信頼している。・・・そのように、大きな災いでも大丈夫 神様を信頼していると付け加えられます。
詩編46編に歌われたユダのヒゼキア王の時代の困難は、アッシリアという国です。アッシリアは、領土拡大にはあまり興味が無くて、属国支配による利益やアッシリアの神の力を示すことを目的に、大軍を派遣してきました。このままでは、ユダも北イスラエル王国のように町ごと捕囚されて遠い外国に連れていかれるのは、目に見えています。そして攻められた結果、エルサレム以外の町はすべてアッシリアの手によって落とされて、ユダ王国は、エルサレムの町だけになってしまっていました。エルサレムは、城壁で守られた堅固な町ですが、すでに孤立しています。城門を開けて戦いに挑むこともできず、かといって降伏したら、異国の地アッシリアに連れられて行って、エルサレムに帰ることが出来なくなってしまいます。逃げ出したくなるような状態ですが、エルサレムの町は完全に包囲されていて、逃げることもできません。このどうしようもない事態の起こる前に、神様はあらかじめ枯れない水源を確保してくださいました。
『46:5 大河とその流れは、神の都に喜びを与える/いと高き神のいます聖所に。46:6 神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。』
神の都とは、エルサレムのことです。そのエルサレムには、ユダの王であったヒゼキアが作ったと言われる地下水路が今でもあります。ヒゼキア王の時代に、アッシリアのセンナケリブ王がユダに攻めかかったときも、エルサレムは危ない状態でしたが、陥落しなくて済みました。陥落しなかった理由の一つが、この地下水路でした。もともと川が無いエルサレムです。エルサレムは、岩山の上と言う立地であり、周辺にも草木が生えていないものですから、昔から水に困っていました。水源は、神殿の丘になりますが、そこから下ったところに泉があって、いくつかのため池がありました。そのうちの一つが、ギホンの泉の水を貯めたシロアムの池でした。この泉と池は、どういうわけか城壁の外にありましたから、戦争がはじまるとこの水を使えるのは、敵と言うことになります。そのために、ヒゼキア王はシロアムの池の外側に城壁を建てました。そして、シロアムの池より安全な場所に新しい洗い場を作りました。神殿の丘を水源とする、この(シロアムの)地下水路は、エルサレムの人々にとって大河のような安心感をもたらしたのでしょう。まさに神殿から注がれる命の水だったのです。そして、アッシリアに攻められた時には、すでに神様によって備えられていたのです。決して当時のユダの王であったヒゼキア王がなした業ではなく、神に聞き、祈ったヒゼキア王が神様から導かれたに違いありません。ヒゼキア王は、神様に祈りながら準備をしてきたのです。当時は異教が入ってきて、神殿の中でも高い所で香を焚くという、異教の礼拝が行われていました。その当時、ヒゼキアは本来のイスラエルの神を礼拝するよう、神様から命令(召命)を受けていました。ですからユダの国は、異教の国のアッシリアの神に仕えないし、アッシリアへの貢物も止めたいわけです。その結果、アッシリアとはいずれ戦争になります。戦争になると、エルサレムは水で苦しみ、攻める敵軍はシロアムの池で十分に水を使えます。ヒゼキア王の地下水路は、そういう背景と、神様の働きかけがあってこそ、備えられたのです。神様は、神様に聞き従うヒゼキア王を通して、エルサレムを守ったのです。
エルサレムの町の特徴は、その高い城壁にあります。高い城壁に守られていますので、容易に攻められません。食べ物さえなくならなければ、持ちこたえることが出来ます。そういう意味で、エルサレムの城攻めは、根競べのような状況が続きます。そして、食べ物はいつかは尽きてしまいます。
そうなる前に、神様は動かれたのです。
列王記下19:35に『その夜、主の御使いがが現れ、アッシリアの陣営で十八万五千人を打った』とあります。神学者たちは、このとき疫病でも起こったのではないかと、言っておりますが、エルサレムはこれで救われました。アッシリアの軍隊は国に戻ったのです。この出来事は、エルサレムの人々にとって神様が働かれていることの確信となりました。神様がエルサレムの神殿にいらっしゃるからこそ、ユダの砦であるエルサレムは揺らぐこともなく守られる。・・・
だから、夜明けとともに。・・・もう助かるんだ と確信しているわけです。
「すでに神様は動かれている」と、ユダの民は神様に信頼をもったのでしょう。
少なくとも、『46:6 夜明けとともに、神は助けをお与えになる。』と書かれているのは、もうすぐ与えられる希望を歌ったと言えるでしょう。
私たちは、今コロナウィルスのために、多くの不便と困難を抱えています。しかし、神様はいつかそこから解放してくれるでしょう。希望をもって、準備をしながら、その時を待ちたいと思います。神様は、それぞれの場所でそれぞれの祈りにこたえらます。そして神様は、その準備をどこかで誰かに託されています。神様は、すでに動いているのです。ですから、この教会で自由に礼拝が出来ない状態は、もうすぐ改善されると思います。そして、コロナ後の教会の姿が見えてくると思います。
コロナで、礼拝や、教会活動が止まりました。一方で、各家庭で礼拝を持つということによって、普段礼拝に出ない人が礼拝に参加出来たりしています。これは、神様が与えられた、一つの集会の在り方でもあります。決して、悪いことだけではないのです。また、これから予想される経済状況の悪化を考えると、景気が悪くなることに連動して、心の問題が出てくるでしょう。ですから、コロナ後の教会は、助けが必要な人々に向けて開かれている必要があります。そういうことが、神様によってすでに動かされ始めているのです。そして、何よりも会衆一同が集まって礼拝を守る姿に戻る。そして、神様によって新しいことも始まっていると信じてまいりましょう。
ヒゼキヤ王が神様に祈って、祈って、神様のご命令に従ったように、私たちも祈ることが必要です。
最後に 46章12節に注目しましょう
『46:12 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ』
神様は私たちと共にいます。だから、祈って求めてください。
神様に逃げ込んでください。そうすれば、「解決」を備えてくださいます。
そんな神様に、感謝しましょう!!