ヨハネ6:60-71

 霊的な祝福

2021年 3月 7日 主日礼拝

『霊的な祝福』

聖書 ヨハネによる福音書 6:60-71


四旬節第3週になりました。イエス様の十字架の出来事にいたるまでを、受難週にはいる3月28日まで、お話していきたいと思います。今日の聖書の箇所では、すでにイスカリオテのユダ(Ἰούδας ὁ Ἰσκαριώτης)が裏切ることが預言されています。(イスカリオテとは、ユダヤの言葉でケリオテ村の人の意)

 

今日の聖書の物語は、イエス様のなさる多くのしるし(例えば5000人への給食の出来事)を見て、沢山の群衆がイエス様に従ってきていた場面です。そうして集まった多くの弟子たちですが、イエス様の話を聞いて理解できなくて、躓いてしまいました。

そのイエス様の話と言うのは、今日の聖書の箇所の前のところにあります。

読みますので聞いてください。

ヨハネ『6:41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、6:42 こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」』とあります。

イエス様のご両親を良く知っている人たちは、イエス様が「天から降ってきた」ということばに引っ掛かりました。だからつぶやいていたのです。そのつぶやきを聞いたイエス様は、イエス様をお遣わしになったのは父なる神様だと、教えになりました。

そしてイエス様は、ご自身の神様から与えられた役割を熱心に語ったのです。

このときの群衆はまだ、イエス様のお話を聞いていますが、イエス様がこのようなことを言ったので、弟子たちの多くが ざわつき はじめます。

聖書を読みますので聞いてください。

ヨハネ『6:51-52わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。』

 

そして、弟子たちの多くが、『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか』と言ったのは、イエス様のこのあとの説明です。

ヨハネ『6:53 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。

6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。6:55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。6:57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。6:58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」』・・・

弟子たちの多くは、つぶやいたり、疑問に思って議論したりしましたが、最後には、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」と 言ってその場を離れてしまったのです。「ひどい」と訳されている言葉は、原語では「難しい」と言う意味のようです。決して「聞くに堪えない」というニュアンスではないようです。それでも明らかに、「イエス様には、ついていけない」との意思表示になっています。この短い記事の中で、弟子たちの多くがイエス様の話を聞いて、「これはヨセフの息子のイエスではないか。?」に始まって「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか?」という疑問となり、そして最後は「聞いていられない」として離れて行ったわけです。

それは、「イエス様が天から降ってきた方ではない」との先入観がもとになっていると思われます。また、「霊的な意味で“肉”」と言ったことを理解できていないのでした。そして、その先入観と理解のないまま、イエス様の肉を食べ、血を飲むとの言葉を聞いたものですから、理解できない話に聞こえてしまったのです。

イエス様は、わたしの肉を食べよ、また わたしの血を飲めと語りました。その意味は、イエス様による霊的な導きを意味していました。しかし、弟子たちの多くは、その霊的な意味ではイエス様の話を聞いていませんでした。そして、聞いたままに、イエス様の肉を食べ、イエス様の血を飲むことを教えていると思い込んでしまったのです。それは、彼らの望んでいたものと違っていたのでしょう。

 

そして、弟子たちの多くは、この出来事を機に、イエス様から離れていくのです。最後の晩餐の時、イエス様は、わたしの肉を食べ、わたしの血を飲みなさいと語りました。それは、十字架で裂かれるイエス様の体を記念してパンを食べる。そして、十字架で流されるイエス様の血を記念して葡萄酒を飲む、教会で引き継がれてきた霊的な主の晩餐式を教えるものでした。しかし、イエス様の家族を知っている者は、イエス様が誰の子であるかを知っていますから、天からの降ってきた者の声として、その話を聞くことさえも難しかったのです。そして、イエス様の言葉を霊的に聞いていない人々には、理解ができなかったのです。ですから、イエス様が詳しく話すほど、多くの人の耳に届かなかったのです。弟子たちには、聞く耳がない状態だったのです。もし、イエス様を信じていたなら、そして霊的にイエス様の言葉を聞いていたならば、弟子たちは離れていくことは無かったでしょう。しかし、12弟子は確かに残りましたが、多くの弟子たちが離れて行きました。12弟子たちは、イエス様の言葉を理解していたのでしょうか?それはたぶん違います。やはりイエス様の十字架の時を迎え、そして復活されたイエス様を見るまでは、まだ確信していなかったのだと思います。信仰は、イエス様と共に歩みながら育つものです。そういう意味で、12弟子たちは、まだその信仰が育てられている最中だったと私は考えます。イエス様によって霊が私たちに贈られ、働くからこそ、イエス様の教えによる信仰を育てられるのです。

 

 さて、では、どうして、多くの弟子たちは、イエス様が、「わたしの肉を食べよ」と言ったこと、また、「わたしの血を飲め」と言ったことの霊的導きの意味を理解できず、文字通りに受け取って つまずいたのでしょうか? 

イエス様はこう言われました、63節『命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。』

 しかし、この時には、既に弟子たちの多くは、イエス様の教えから心が離れてしまって、イエス様の言葉に耳を向けていなかったのです。

 

 当時、イエス様には、たくさんの弟子たちがいました。しかし中には、五千人の給食で、「パンを食べたから満足した」弟子たちもいたのです。イエス様の命のパンに与ったのではなく、食べ物のパンだけを頂いた人々は、また食事ができると期待して待っていたのでしょうか? それとも、イエス様の奇跡や「しるし」を見たかっただけでしょうか? 期待に沿わなかったこと、そして、何かわからないお話を聞いたことで、弟子たちの多くはイエス様から離れていきました。

多くの弟子は離れて行きましたが、12弟子は残りました。彼らは、これまで、約2年半、イエス様とともに寝起きをし、教えを受けていました。イエス様のしるしを、一番傍でいつも見ていたのです。イエス様は、その12弟子にも問いかけます。『あなたがたも離れて行きたいか』とあります。

ペトロは、いつものようにここぞと言うばかりに言います。

『主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています』とイエス様への信仰を告白したのです。

すると、イエス様はこういわれました。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」

・・・イエス様は、御自分と対立している律法学者や、ファリサイ派に売り渡すことを決意するイスカリオテのユダのことさえもご存知でした。ユダの心は、イエス様のところから離れていたのです。

 

 ユダは、12弟子という特別な立場にあったにもかかわらず、イエス様を殺そうとする相手に、イエス様を引き渡すことを決意しました。なぜでしょう? そのような疑問に対して、明確に答えることは不可能ですが、神様のご計画であったという考え方があると思います。つまり、十字架の出来事と復活のご計画のためには、必要な事だったということです。そして、こういう理由を言う人もいます。イスカリオテのユダは、イエス様が神様であることの「しるし」を求めたのだと言う考えです。イエス様を引き渡すことによって、イエス様が奇跡を起こすだろう、そうしたらイエス様が神様であることの「しるし」になる。そのように、イスカリオテのユダは、「しるし」を熱望してしたという人もいます。わかり易い言い方をすると、イスカリオテのユダは「イエス様を試した」と言うことです。この時にイエス様を離れた弟子たちの多くもそうでした。パンなどの物や、見える「しるし」を求めてしまって、霊的な祝福をイエス様に求めていなかったから と 私は考えます。「しるし」を見続けたいと、見える物をばかり求め、霊的な祝福に気が付いていなかったのです。

わたしたちは、この時に離れてしまった弟子たちの様に、物質的な満足やお腹を満たすこと、ましてやイエス様のしるしを見る事を願って、イエス様に従っているのではありません。わたしたちは、天の父なる神様によって、救われるように、選ばれ、赦されていることを知っています。私たちはイエス様を信じているので、イエス様が送られる聖霊を受け取ろうとします。その結果、わたしたちは霊的に祝福を受け、喜んで歩んでいけるのです。

 

わたしたちは、永遠の生命を与えてくださるイエス様を信じています。そして、霊的に私たちを祝福し育ててくださるイエス様と共に歩んでいくことを望んでいます。それは、物質的に豊かになるためでも、自分の都合が成就するためではありません。私たちは、イエス様の恵みの中に居たいのです。神様が、そのように私たちを造ってくださっているのです。イエス様から一生涯離れることなく、信仰の道を祈って歩みましょう。そして、イエス様の平安と聖霊の働きの中にいるその喜びを 周りの人々に伝えてまいりましょう。