ルカ9:18-27

命の約束 

2022年 320日 主日礼拝

聖書 ルカ9:18-27

 

命の約束

今日は、ルカによる福音書から、イエス様の十字架と復活の予告のお話をします。まず、バプテスマのヨハネの事から説明をしなければなりません。このヨハネは、「悔い改めのバプテスマ」を人々に授けていました。バプテスマとは私たちバプテストの群れの名前の元になっている言葉でもありまして、新共同約聖書にこのように解説されています。


◆洗礼(バプテスマ) 従来のプロテスタント諸訳では「バプテスマ」と訳されていた~元来「水に浸す」と言う意味。ヨハネは「悔い改めの洗礼(バプテスマ)」を授けた(マタ 3:7)が,ユダヤ教の一部では,宗教的な清めの儀式として,身を水に浸すことが行われていた。キリスト教では,罪からの清めと,キリストと一致する新しい生活に入るしるしとなり,教会の重要な聖礼典もしくは秘跡となった(使 8:36,9:18,ロマ 6:3,4,ガラ 3:27)。(新共同訳聖書の解説)

 

ルカによる福音書の記事には書かれていませんが、マルコ1:14によると、イエス様はバプテスマのヨハネが捕らえられてから、ヨハネが活動していたガリラヤで伝道を始めています。そう言う意味で、イエス様はバプテスマのヨハネの活動を引き継いでいるようにも見えます。

一方で預言者であるエリヤは、アハブがイスラエルの国王だったころ(紀元前9世紀半ば)の人で、モーセ後に出てきた最も偉大な預言者と言われています。預言者についても、新共同訳の解説を見てみましょう。

◆預言者(よげんしゃ) 神の啓示を受け,神の名によって語る人。~新約では,旧約の預言者個人を指す場合(マタ 3:3,4:14)と,「律法と預言者」と言うように,旧約の第2部を意味する場合がある。また,初代教会には使徒の次に教師,奇跡を行う者などと並んで預言者がいた(1コリ 12:28)。これは神の霊によって預言をする能力を与えられた人であった(1コリ 14:1)。(新共同訳聖書の解説)

 

また、1世紀のユダヤでは、エリヤが再来する、再び来ると伝承されていました。そのエリヤの再来が、バプテスマのヨハネだといわれたり、イエス様だと言われたりしていたようです。イエス様は、弟子たちに「人々は、イエス様のことを何者と言っているのか?」を聞かれたときも、弟子たちは、バプテスマのヨハネの生き返り(ルカ9:7)だと言う人もエリヤの再来(ルカ9:8)だと言う人いることを伝えています。そして、普通に「預言者」として受け止めている人もいたようです。イエス様は、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と弟子たちに尋ねます。

すこし、無鉄砲なところがあるペトロはさっそく答えます。「神からのメシア」ですと。・・・メシアと言う言葉の由来は、「油を注がれた者」(メシャー)のことで、イスラエルの王が、その任命のときに油を注がれたことから来ています。当時の伝承では、ダビデの子孫にメシアが生まれることになっていました。そのメシアが、将来現れてユダヤを、滅亡した王朝を再び立ち上がらせると言うことです。王朝を再び立ち上げる指導者として、ダビデ王の子孫が立ち、イスラエルの国が救われると信じていたのです。ペトロは、イエス様を「神からのメシア」だと言いました。そのころ、メシアと自称して、反乱を起こす人物が何度か出ていました。それは、人の思いで自らをメシアと呼ばせて、その反乱を正当化した「人からのメシア」です。ですから、ペトロの言う「神からのメシア」という言葉の中に、神様の御意思でこの世に送られてきた、救い主だという思いが入っています。イエス様の中に神様の力が働いている事を認めていたのは間違いないでしょう。しかし、本当にイエス様がメシアつまり「救い主で、神様」だとペトロが信じたのは、復活のイエス様に会ってから・・だと言えます。イエス様は、まだ十分に信じることができていない弟子たちを見て、このことを誰にも話さないように戒めました。

ここでイエス様は「人の子」のことを話します。人の子とは、イエス様の事でイエス様はご自身のことを「人の子」と表現しました。 イエス様(人の子)は、『長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活すること』を弟子たちに教えるんですね。

この箇所のマタイとマルコの並行記事では、ペトロがイエス様を諫めます。イエス様が教えている最中なのですが、ペトロは口を挟んで「そんなことがあってはならない」とイエス様を諫めるわけです。するとイエス様は、「サタン、引き下がれ」(マタイ16:23、マルコ8:33)と、ペトロを叱っています。ペトロは、やはり人の思いでメシア、救い主を考えていたのです。それこそ「人からのメシア」です。福音書記者ルカは、そのペトロの記事を採用しなかったわけですが、「神からのメシア」とペトロが言っていながら「人からのメシア」をイメージしていたであろうペトロの姿は、省略したものと思われます。ルカは、神の子イエス・キリストがこの世に降ってきて、十字架にかかって私たちの罪を贖い、そして復活された意義を中心に書き表したかったのだと私は考えています。

 

「十字架を背負う」とは、十字架刑に架けられる者は十字架の横木を背負わされて、引き回されたことから来ています。処刑場には柱が立てられていて、そこに横木ごと人を取り付けると十字架になるわけです。その横木を自らが運んで、十字架刑の準備を進めるわけです。つまり、十字架刑では、十字架上での苦痛に耐えれば良いだけなのではなく、その前に心を痛め、体力の限界まで、十字架を背負って歩くことを示します。ですから、イエス様の後に従いたい者は、十字架刑での死だけではありません。その道のりも重い十字架を背負って歩いていく覚悟で、イエス様に従いなさいとのご命令だったのです。そして、このように言われました。

 

『9:24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。』

 

この言葉は、自分の思いとあべこべの結果になることを指してます。イエス様は、他にも、このようなあべこベな結果となることを言われています。

その一例をあげると、狭い戸口の譬えです。

ルカ「13:30 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」」

 

 この言葉は、この地上の出来事では先であっても、天の国では後になってしまうこともあると言っているので、必ず真反対になると言う意味ではありません。しかし、一般的な「この世の思い」による期待と、天の国で得られる結果は逆転してしまうのです。・・・この世で、自分の命を救いたいと思う者は、その思いに反して天の国での命を失います。その逆をいくと、自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエス様に従った者は、地上での生活が終わった後、地上で失ったはずの命が天の国で得られるのです。自分の十字架を背負わなかった者は、自分の命を救いたいと思ってのことですが、地上での命は「ほんのしばらく長らえる」だけです。そして、その長らえた地上での命を失った後、天の国では命を頂けないのです。        

「イエス様を信じます」と信仰を告白した者は、イエス様に従う者とされます。そして、其々が自分の十字架を背負うこととなります。しかし、自分を捨て、日々自分の十字架を背負っていくこと。それは、とてもできそうにないことです。それなのに、イエス様はなぜ

『9:24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。』などと言われるのでしょうか?・・・

 私たちは、イエス様のように神様のご命令の全てを受け入れ、自分自身に十字架を課すほどの信仰はありません。そればかりか、私たちにとっては、どんな重荷であっても、それを背負っていくことに自信がないのです。自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエス様に従うことは、本当の意味で自分の命を救うことだとわかっていてもです。私たちはのイエス様の十字架の死によって自分の罪が赦されていることを知っています。また、イエス様の復活によって新しい命の約束が与えられていることも知っています。しかもこの新しい命は、全世界を手に入れるよりも価値のあることなのです。しかし、残念なことですが、私たちではどうにもならないのです。力が及ばないからです。だから、イエス様に祈って求めなければ、なりません。私たちには十字架を背負うだけの気力も体力も足りないのです。ですからイエス様に祈って、求めるしかありません。祈って求めるからこそ、自分にとっての十字架が何であるかを知ることができます。そうして十字架を背負う備えが始まるのです。

 

 イエス様は、『 確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。』と言いました。

「地上での死を乗り越えて、そのまま神の国での命を得る人がいる」、と言うイエス様の約束であり、祝福の言葉です。イエス様によって、私たちの歩みはすでに約束され、そして私たちの力によるのではなく、イエス様によってそれが成就するのです。力が足りない私たちであっても、自分の十字架の前に腰が引けている私たちでも、イエス様の導きと執り成しによって、神様の恵みに与れるのです。それは、すでにイエス様の十字架と復活によって約束されます。

 私たちの教会は神の国の入り口です。教会では神様の言葉が語られ、そして聞かれています。神の国の姿がそこには映し出されています。私たちの間に、この教会に神の国がすでに存在しているのです。

 

 ここで、私たちには大きな課題が残されています。一つは、私たちにとって十字架とは、何であるかを見出すことです。また、自身が負える十字架が見つかって、これからどうすべきかを祈っている人もいるでしょう。そして、十字架を負ってみたものの、思いもよらぬ十字架の重さに困ってしまうこともあるでしょう。その逆を言えば、荷物の軽い重いにかかわらず、楽しく担っている人もいるでしょう。

 教会は、イエス様を救い主と信じる者たちによって建てられています。ですから、多かれ少なかれみんながその十字架を負っています。重い十字架を担っている人だけが、天の国で命を得られると言うわけではありません。イエス様は分け隔てされない方ですから、全てのイエス様を信じて教会に集う者には、「天の国での命」を約束してくださっています。復活されたイエス様によって生かされている信仰者たちが、ここ教会にいるのです。教会に来て、信仰を表す全ての人が、信仰を持つ以前の古い自分ではなく、新しく生まれた人として生かされています。イエス様は、死を乗り越えられ、私たちに新しい命を吹き込んでくださるからです。そのイエス様の力をいただくために祈ると、イエス様はそれをかなえて下さいます。イエス様への祈りによって力が与えられるからこそ、私たちも、イエス様に従って日々を歩むことができます。イエス様の十字架と復活によって、「この世界も、教会も、私たちも新たにされている」ことに感謝して、受難週、そしてイースターを祈りの中で迎えてまいりましょう。