ルカ9:46-62

 いちばん偉い者

 

 9章では、イエス様は弟子たちに十字架と復活を教えていました。しかし、繰り返し教えられながら、弟子たちはまだ真正面から受け止めていません。それを受けて、ここでは小さい物語ばかりですが、弟子たちの愚かさ(=私たち人間の愚かさを象徴している)を痛感させられます。


1.いちばん偉い者

 だれが一番偉いか? それは、イエス様が救い主としてユダの国を治める時、だれが大臣になるか?と言う問いでもあります。イエス様が教える「十字架による死と復活」に注目せずに、ローマからの解放がかなったとき、一番上に立って国を指導する者は他の弟子たちを部下として支配することばかりに気がとられているわけです。そして、考えていることは、仕えることではなく、仕えられるものになる事が明らかです。そのことを見抜いたイエス様は、一人の子供の手をとり、「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」と言います。

 「受け入れる」とは、良く話を聞き、寄り添い、そして助ける事だと思います。イエス様の名のために、この子供を受け入れる謙虚さと愛とを持っているのならば、その人は、すでにイエス様を受け入れていますし、神様を受け入れています。最も小さい者。それは、謙虚さをもって自分をだれよりも低く置いて人々と接する人と言えます。だから、最も偉大なのです。

 同じような、「いちばん偉い者」の記事がるかにはあります。イエス様は、一貫して仕える者となるようにと教えています。

ルカ『22:26 しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。』


2.逆らわない者は味方

 ヨハネは、イエス様の名前を使っている者がいると、イエス様に伝えました。そして、その者がイエス様ご一行に加わって従おうとしない事から、イエス様の名前を使うことをやめさせようと提案します。すると、イエス様は言います。「やめさせてはならない」。つまり、害はない。

イエス様のいうことでは、「あなたがたに反対していない者は、あなたがたのためになっている」

 反対する者、反対しない者、仲間がいるとき、ヨハネは反対する者だけではなく、反対しない者まで敵にしてしまうことを提案したわけです。そもそも、仲間でなければ、敵だという発想に近いです。イエス様は、反対しない者は味方だとして、敵対することを許しませんでした。


3.サマリヤ人から歓迎されない

 南王国ユダは王朝の血統を維持していましたが、北王国イスラエルは下克上(げこくじょう)が続きました。ユダ王国の首都はエルサレムであり、そこには神殿がありました。イスラエル王国はそれを模して、サマリヤの山(ゲリジム山)にバアルなどを祭る神殿を建設しています。これは、ユダのエルサレムに毎年巡礼に行くことをやめさせるために、そして国の精神的支柱とするために行われたものです。サマリヤからエルサレム巡礼の雰囲気を漂わせたまま、過ぎ越しの祭りを目指してサマリヤ人の町で宿をとろうとしても、それはとても無理な事なのです。

 ヤコブとヨハネは、その事情を知っているはずなのに、こんなことを言います。

『「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」』

エリヤがバアルの祭司と対決した(王上18章)ように火を降らせましょうと提案します。これでは、あまりにも乱暴でありますし、相手のサマリア人に悪意があるとも言えないのですから、それに火を降り注ごうと言うことはあり得ません。普通に考えて、ユダの民が住んでいる町に行けばよいだけなのです。


4.弟子となる覚悟

 イエス様の一行に加わろうとした人がいました。あまり覚悟がなかったのでしょう。「帰って休むところもないよ」とイエス様が言うと、黙ってしまったのでしょう。

 イエス様は、他の人に「わたしに従いなさい」と言いました。「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」との答えが返ってきます。葬式が優先だと言うわけです。それとも、面従腹背か、先延ばしなのでしょう。イエス様は教えます。

「霊的に死んでいる者たちに肉体に死んだ人の葬りをさせなさい。霊的に生きているあなたは神の国を言い広めなさい」


 通じたのでしょうか? 別の人もイエス様に言い訳をします。

「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」

これも、「父を葬りに」とおなじように、面従腹背か先延ばしです。

 イエス様は言いました。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」

鋤は、農作業を象徴しています。この農作業を始めてしまってから、やめようかと迷っているのであれば、とうていその農作業をするのにはふさわしくありません。鋤に手を置くことは、引き受けることを意味することわざです。引き受けたことを後悔して振り返るのではなく、前を見据える必要があります。それが、まだ後悔しています。それでは神の国には、相応しくありません。