マルコ15:6-32

  ユダヤ人の王

 「ユダヤ人の王」:希語 Ὁ βασιλεὺς τῶν Ἰουδαίων(ホ バシレイウス トン ユダイオン)マルコではこの記載です。なお、西洋画でINRIという罪状書きが書かれていることがありますが、これはラテン語で「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」:IESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM

1.死刑の判決

 ローマ総督ピラトは、死刑の判決権を持っていました。そして、イエス様が罪にあたること(ローマ法)をしていないことを知っていて、イエス様を助けようとします。そこで思いついたのは、過ぎ越しの祭りの時に、一人の囚人を釈放するとの慣例でした。ピラトは、「イエスを釈放してほしいのか?」と群衆に聞きますが、祭司長たちが群衆を煽って、囚人バラバを釈放するように働きかけます。そして、ではイエス様にはどうしたらよいのかとピラトは、群衆に聞きます。すると「十字架につけろ」と叫びだします。ピラトは、イエス様を本気で助けようとしたのではありません。群衆を満足させるために、そして、無実の者を十字架にかける責任を群衆に転嫁するために、このようなことをしました。ピラトのユダヤの統治はうまくいっておらず、ユダヤ人とローマ兵の間で衝突が繰り返されてきました。ローマ総督としてのプライドや利害に関係がなければ、群衆の機嫌」をとるのが賢いと考えたと思われます。この後すぐにピラトは、その悪政のゆえに、ローマに召喚され失脚します。

2.兵士から侮辱される

 十字架刑は、見せしめのために行われました。ですから、侮辱もその一部です。兵士たちは罪状書き「ユダヤ人の王」にあわせ、王の姿に似せてはからかい、そして、ひどく侮辱をします。この十字架刑を見た人が、同じように十字架にかかることを恐れさせるためですから、手加減などありません。侮辱し、そして横木を担がせ自らの十字架刑の準備を本人にさせる。この精神的苦痛に加え、むち打ち、横木を担いで歩かさせられ、体力を消費させます。

3.十字架につけられる

 『15:23 没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。』

 横木を担いだイエス様が、もう疲れ果てて担げなくなったので、そこにたまたまいたキレネ人シモンが代わりに担がされました。そして、気付けのためのぶどう酒を誰かが飲ませようとしました。しかし、イエス様は受けませんでした。(最後の時も、酸いぶどう酒を受け取らなかった)

 これは、最後の晩餐の時の誓い『14:25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」』 を実行されたのだと考えます。

 戦場での兵士は、なんでも略奪します。下級兵士は、軍役に対する報酬に加え、略奪も主な収入源にしていた面があります。お金に替えられるならば、なんでも奪い合ったのです。

 罪状書きは、「強盗」「ユダヤ人の王」「強盗」。この3人が十字架にかけられました。当然ながら「ユダヤ人の王」に注目が集まります。また、安全な場所にいる人(処刑を見守る人)たちは、残酷な言葉を投げかけます。自分の身に危険がなく、一方的に苦しんでいるところを眺めているわけですから、言葉の暴力は止まりません。「十字架から降りて自分を救ってみろ」・・・そして、祭司長たちまでもが「メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」と言ってイエス様をののしりました。そして、同じ十字架にかけられている二人の強盗も一緒になってイエス様をののしります。

 ののしることで、彼らは何を得ることができたのでしょうか?留飲を下げただけのように思われます。しかし、底本にない部分は「イザヤ書から預言されていたことが実現した」と主張しています。罪がないのに、イエス様は罪人のひとりに数えられたのです。そして、イエス様は私たちの罪を神様にとりなして、赦しをもたらされたのです。

イザヤ『53:12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。』