ローマ7:7-25

望まない罪を行うわたし


1.律法は悪いものなのか

 ここでパウロは、「律法は罪ではない」とあらかじめ断ります。パウロが言うように、律法にかかわっていなかったのが、掟によって罪は機会を得 パウロにむさぼりを引き起こしました。(律法はモーセ五書、掟は律法を守るために人が作った命令。)だから、律法が無ければそのようなことにはなりませんでした。だからと言って、律法や掟は聖なるものであり、正しく善いものなのです。しかし、善いものである掟はなぜ、死に導くのでしょうか?

 神様から頂いた律法は、素晴らしいものであり善いものです。もしも律法に従うなら、すべてはうまく行きます。律法自体には何の落ち度もありません。しかし、その善いものに従うことができない人間の側に問題があるのです。人間は神様の定めたあらゆる律法に目を向けるとき、自分自身の罪深さも見ざるをえなくなります。神様のすべての戒めを守ることは、人間には不可能です。善き者になろうと努力を重ねれば重ねるほど、その人の罪深さを律法はより明確に示します。こうして、それ自体は善いものである律法が私たち人間に死をもたらすことになってしまったのです。ところが、それと同時に神様の御旨も実現することになりました。それは、律法のおかげで私たちは自分が罪深い存在であることがようやくわかるようになった、ということです。


2.罪深く聖なる者

「キリストの信仰者は罪深い者であると同時に聖なる者でもある」、と言いたいのでしょうか、それとも、「キリストの信仰者は罪のない状態でよい生活を送ることができる」、と言いたいのでしょうか。この問題は決定的に重要なものです。


 後者は、「神様に自分を委ねたはずの人間が相変わらず罪深い存在でありえようか」、との考えです。聖書学者の大多数もこの立場を支持しています。しかし、何人かの教会教父たちはそれとは異なる立場を取りました。すなわち、「パウロはこの箇所で、ほかでもない自分自身の罪深さを嘆くキリスト信仰者について語っている」という見方です。プロテスタントの神学はこの立場を取っています。

 それでは、「パウロはここでキリスト教徒に話している」という前提で進めて行くことにします。この見解の根拠として、「この世での人生を終えた後でようやく訪れる罪と死からの解放をパウロが心から待ち望んでいる(1コリ15:50-58)」 ことをあげることができます。また、「私は善を行うことができない」、とパウロ自身が告白しています。人間は善を行うことを望んでも、それを実行するのは困難です。人間は悪を行うことを望まないとしても、やはり行ってしまいます。なぜなら、心の中に住みついている悪に人間は支配されているからです。一方で、パウロは神様の律法の教えに賛同し、それが善いものだと、証します。パウロはこの矛盾から逃れることができません。 

 「私は惨めな人間です。誰がこの死の身体から私を救ってくれるのでしょうか」(24節)。これはパウロの心からの嘆きの言葉です。その同じ心からは神様への感謝も出てきます。キリストは人間の罪の罰の一切を代わりに引き受けてくださいました。そのおかげで、罪深い人間は「神様の側に属する者」とされたのです。キリスト信仰者は他のことと比べて、とりわけ自分の罪深さと弱さに関しては、それらを瞬く間に忘れてしまう傾向があります。特定の罪は、重大な罪であるとみなされます。たとえば、神様を無視して生きていたとか、人を傷つけたとか、何かをむさぼった といったことです。神様はこれらの罪から人間を解放して御自分の民に加えてくださいました。しかし、このような罪の行いをやめても、取り繕っただけのことです。はたしてその人の状態は本当に改善したと言えるのでしょうか。実は、神様の前で私たちはまさにそのような存在なのです。たとえ目立つぶんだけ、罪の行いを拭い去ったとしても、悪の源泉である人間自体はそのままなのです。目立つことをしなくなっただけで、目立たない悪は行い続けるのです。

 「神様の身内の者」とされたはずの信徒にとって、この事実に気がつくと、かなり動揺するかもしれません。「罪がゆるされた」と喜んでいたのが、その赦された罪の重さ、そしてこれから犯す罪をも赦されることの寛大さ、そして人間自身では罪をどうにもできないという事実は、惨めでもありますし、一方でキリストを信じる聖なる者なのです。パウロは自分が「キリストの側に属する者」であることを信じて告白しています。私たちもこのパウロに倣って、自分たちが罪ふかいままで「キリストの側に属する者」であることを告白できるのが望ましいです。神様は私たちの抱えている惨めな罪深さをよくご存知です。たとえ私たち自身にはその惨めさのごく一部しか気づいていないしても、神様はその全体を見ています。

 

 私たちは本来なら地獄に落ちるのが当然の罪深い者です。それでも私たちはキリストの流した血によって清められており、罪を赦されて罪のない者として、神様にとって愛しい存在とされています。これは私たち自身の行いに対する報酬ではなく、御自身をささげられたイエス•キリストの十字架のみ業のおかげなのです。神様は、イエス様の十字架での死と復活を信じる私たちを愛し、無条件に罪を赦されたのです。