マタイ11:2530

らぎのために

2023年 6月 4日 笛たちの語らい コンサート挨拶

 「安らぎのために

聖書 マタイによる福音書11:25-30 

 今日は、マタイによる福音書から、み言葉を取り次ぎます。今日の箇所は、有名な「笛吹けど踊らず」のたとえの後になります。その「笛吹けど踊らず」の記事ですが実は、今日の記事とセットになっています。ただ、セットでお話をすると時間がかかってしまいますので、マタイによる福音書11:16~24までを簡単に紹介して、今日の箇所をお話したいと思います。イエス様の時代、人々はバプテスマのヨハネが来ても、『あれは悪霊に取りつかれている』と言って無視していました。そしてイエス様が来た時も一緒です。イエス様が食事をしているのを見ては、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』等と言って、非難します。非難はするものの教えには耳を貸しませんでした。つまり、イエス様の教えは無視されたのです。また町についても同様です。イエス様はガリラヤ湖北岸のカファルナウムを本拠地にして伝道していました。コラジンもベトサイダもカファルナウムの近くの町です。この町々でイエス様の群れは多くの奇跡を起こしましたが、どの町の人々もあまり悔い改めません。ですから、イエス様は嘆きました。シドンやティルスと言った異国のフェニキアの港町と比べてさえ、信仰が薄いと。だから、イエス様は、この地方の町は、旧約聖書にあるソドムとゴモラよりも厳しく裁かれなければならないと言いました。それだけ、ガリラヤの人々が「天の御国が近づいた」とのイエス様のメッセージに、心を開かなかったのです。イエス様は、この状況に嘆いていました。

『11:16 今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。11:17 『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』』

そのために、イエス様は神様に祈り、そして弟子たちに教えました。今日の聖書箇所です。前半(25~27節)がイエス様の祈りで、後半(28~30節)は「弟子たちに対する招き」です。そして、この招きもマタイの福音書で「最も有名」な箇所と言ってよいでしょう。

『11:28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。』

 このみ言葉によって、教会に導かれた人は、多いと思われます。しかし、この部分だけを切り取っては、正しい理解は得られません。その前にイエス様の祈りがあるのです。この世の人々がバプテスマのヨハネを無視し、イエス様の教えもむししました。その事実を前提に、イエス様の祈りを読んでまいりましょう。

 『天地の主(しゅ)である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。』

イエス様が、まず 父なる神様を賛美します。これは、神様の行ったことに賛同していることを示します。「天の御国が近づいた」。神様はこの事を、ファリサイ派の人々や律法学者のように知恵があって賢い者にはわからないようにしました。そして、イエス様の弟子たちや幼子のような者には、示したと言うことです。この感謝ののち、さらにイエス様は神様に祈ります。

『11:26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。11:27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。』

 この祈りの意味は、わかりますでしょうか? そもそも知恵ある者や賢い者には隠して、イエス様の弟子たちに示すことが、神様の御心だったと言うわけです。そして、弟子たちの事も含めすべての事は、イエス様に神様は任されているのです。神様以外は、イエス様の本質を誰も知りません。そして、神様の子であるイエス様は神様の本質を知っておられます。イエス様にすべては委ねられていますから、私たちはイエス様を通してのみ、神様を知ることができます。逆に、イエス様の弟子とならない間は、神様を知る機会が得られないのです。だから「子であるイエス様が父を現そうと心に定めた者」、つまり「イエス様が神様を知らそうと心に定めた幼子のような者」だけが父なる神様を知ることができるのです。神様の子であるイエス様が、父なる神様を現わそうとしなければ、だれひとりとして神様を知ることは無いのです。この事は、イエス様から選ばれるまでは、人が神様を知ることはないことを意味します。そしてイエス様に選ばれて、救いにあずかります。救いにあずかった後も、さらなる恵みを頂きます。その恵みは、イエス様の招きを受け入れることによって私たちの上に約束されているのです。


 イエス様は、2つの言葉で人々を招きました。まず最初のこの言葉です。

『11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。』

 まず、「疲れた者、重荷を負っている者」とはどういう人のことを言っているのか、理解しなければなりません。ここで、「疲れた人々、重荷を負っている人々」とは、「イエス様の弟子たち」のことです。もちろんすべての疲れた人、重荷を負っている人のことを、想定しても大丈夫です。しかし、この場面ではむしろ当時弟子たちに「重荷を負わせ」て「疲れ果てる」まで、非難をし、邪魔をする人々がいたことを考えなければなりません。特にファリサイ派の人々や律法学者です。彼らはモーセの律法を守ると救われると考え、そのような指導をして、人々に「重荷を負わせ」たのです。それに加え、律法を守れない人々を「地の民」(地上をはいつくばって生きる民:アムハーアーレッツ)と呼んで軽蔑しました。そのように扱われる度に、「地の民」は「自分は救われない」「神様は自分を見放した」との絶望を味わったと言えます。すべての「地の民」と呼ばれるごくごく普通の人や貧しい人は、知恵があり賢いファリサイ派の人々によって、さげすまれていたと言えます。こうして、ファリサイ派の人々や律法学者たちにさげすまれている人々に、イエス様はこの招きの言葉をかけられたのです。直訳すれば、このような言葉です。

「疲れた者、重荷を負う者はだれでも、私のほうに振り返りなさい。私があなた方を休ませてあげます。」 今まで与えられ続けていた、「掟を守る」と言う価値観。そこには休息はありません。いつも責められるばかり、そしていつもつらいばかり。それもそうでしょう。掟は、人の言葉であり、神様のことばではありません。人の言葉に従おうと努力しても、得られたのは絶望でした。当然の結果であります。真実の言葉は、イエス様の言葉です。イエス様の呼びかけに顔を向けようと振り返る。そのとき、イエス様の言葉に私たちは「ほーっと」させられるのです。そして、イエス様の方に顔を向けた時、休ませていただけるのです。心をイエス様に向けたそのとき、元気を取り戻すのです。

 2つ目の招きは、

『11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。』

イエス様は、柔和さと謙遜さをもって、神様の軛を負っています。軛と言ってピンとこない人が多いと思います。例えば、馬車を引かせるために馬の首の下に横木を取り付けますが、その道具を軛と呼びます。馬の胸に軛を引っ掛けて馬車を引くわけです。その使い道からして、軛とは自由を拘束する物であるわけです。また、荷物が重ければ、それだけ疲れます。何よりもまず、その軛をつけるためには、頭を低くし、飼い主である神様の意志に謙虚に応じる姿勢が必要です。イエス様は、自ら進んで、神様の軛を負っています。そのことに倣って、イエス様の軛を負いなさいとの言葉です。つまりこれは、イエス様の働きの一部を担いなさいとの招きであります。その働きとは、きついのでしょうか?しかし、イエス様は言います。この束縛は、緩いものであって、そして、荷は軽いのです。なぜならば、イエス様ご自身が負っている軛であり、そしてイエス様の弟子たちもその軛を負っているからです。

 第一の招きでは「休む」ことが出来ると、そして第二の招きでは「安らぎ」が得られるとイエス様は言っています。「休む」と「やすらぎ」とは、何処が違うのでしょうか?原語を調べてみると、どちらも同じ言葉「休息」が使われています。違いはと言うと、第二の招きの方には、「魂の休息」と「魂の」が付け加えられています。真実の神様を見つめ、祈り、そして喜んで神様のお手伝いをすることによって、魂の疲れが癒されると言うことですね。ですから、イエス様の弟子となることは、喜んでイエス様の軛を負うことなのです。それにしても、なぜ私たちは、わざわざ軛を負ってまで、魂の休息を求める必要があるのでしょうか? それは、 罪から 、そして私たちのすべての思い煩い、恐れ、悲しみから解放されるためです。イエス様の軛を負う意味がここにあります。しかし、無理をして服従するのであれば、精神的にも肉体的にも負担になってしまう上に、「魂の休息」にもなりません。どんなにも、イエス様の招きに対し頑張ったとしても、「魂の休息」が無くては、意味がないのです。だから、私たちは自身の魂のための休息を得る事を目的に、イエス様の招きに応じるのが適切なのです。だから、軽い軛を担う、それだからこそ魂の休息となるのです。


エレミヤ『6:16 主はこう言われる。「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ/どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」~』


 ユダヤでは、「人はイスラエルの神様への信仰を告白し、そして神様の律法に従って生きなければならない」と教えられてきました。この戒めに疲れた人々に、肉体的・精神的な休息をあたえようと、イエス様は人々を招きました。そして第二の招きは、イエス様への信仰を言い表すだけではなく、イエス様の御用に加わる事です。イエス様を信じる人々は、イエス様の御用に加わることを義務とするのではなく、自らの「魂の休息」である安らぎを得るために、無理のない範囲でするべきなのです。とは言いながら、じっと座ったままとか、受け身で歩むのではなく、神様の御心に注意を払いたいものです。そして、私たちはイエス様の軛を負うように招かれています。その招きに応えるとき、私たちはイエス様を模範とする必要があります。必要なのは、イエス様の柔和さ、謙遜さ等のイエス様の性質であります。イエス様が神様に服従する方であり、人々にもへりくだる方です。そして黙って重荷を負うのも、イエス様の性質です。この性質は、イエス様の弟子たちにとって学ぶべき事であり、まずは見習うべきです。イエス様ほど柔和で、謙遜な人はいませんでした。だから、イエス様は神様からの軛を喜んで受けられたのです。私たちもイエス様の軛を負うときに、イエス様のように喜んで引き受けたいです。もちろん、イエス様のようには重荷には耐えられませんから、軽い荷を喜んで引き受けるのです。このようにイエス様の性質に学び、そしてイエス様のお手伝いをすれば、神様は私たちに「魂の休息」を下さるのです。


 先ほど紹介したエレミヤ6:16を再度確認してみたいと思います。

『さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ/どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。』

 どれが、幸せに至る道かを選ぶ。その選びは、第一に、私たち自身の安らぎを目的とすることです。ですから、どの程度イエス様の軛を負えばよいのか?の疑問にもお答えできます。イエス様の軛を負うことは目的ではありません。私たちの安らぎのための、手段であるわけです。決してイエス様の命令に服従しなさいと言うわけではないのです。むしろ、聖書は、私たちの安らぎのために、苦にならない範囲で、イエス様の招きに答えていればよいと教えているのです。そして、私たちの安らぎは、イエス様のとりなしによって、与えられるのです。このイエス様の招き。感謝ですね。このイエス様の招きに答えて、まずはイエス様の方に振り向いて、休みを頂きましょう。そして、イエス様の仕事を喜んで手伝うことで、安らぎを受け取ってまいりましょう。