Ⅱテサロニケ1:1-12

かの日、主が来られる日

 第一の手紙と同様、あいさつで始まります。パウロ、シラス、テモテ~の挨拶です。第一の手紙とどれだけ時間がたっているのでしょう?。どうも、極めて短い間に、再度確認の手紙を出さざるを得なかったようです。具体的には、第一の手紙を届けた者が、テサロニケの教会の動揺に気が付いてパウロに報告し、その応答をパウロが書いたものと思われます。


.テサロニケの問題

問題が何であったかの手がかりとなるのは、次の三カ所にあります。そこに、テサロニケ固有の問題があったことがうかがわれます。

Ⅱテサロニケ『2:2 霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。』

この記事では、偽預言者の言う言葉や、パウロからと偽って送られた手紙に言及しています。偽預言者は、「もう既にその時が来た」と言うでしょう。なぜなら、聞く人を動揺させて、偽預言者自身が時を支配している「神」であると信じさせたいからです。そして、その時が来たのだから、私にすがりなさい・・・ となっていくことでしょう。

 そういう混乱が、偽預言者によって新しく信徒になった人々の中に起こされていたのです。そんなさ、Ⅱテサロニケが書かれました。これは、テサロニケの信徒誤解を解くように送った書簡でありますが、パウロがそのために支援をするような話題については、語られていません。テサロニケの自立した信仰に委ねたのでしょうか? 事実、パウロはこの後、エルサレムに向かいますので、テサロニケに行けませんでした。

Ⅱテサロニケ『3:6 兄弟たち、わたしたちは、わたしたちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい。』

テサロニケは、港町です。恥はかき捨ての港町。港町は、風紀がもともと良くないところです。新たに信徒になった人々は、急には生活態度を変えることは難しかったのでしょう。

パウロは、以前送った手紙の中で、死んだ人の復活のことを書き送っています。
Ⅰテサロニケ『4:16 すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、4:17 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。』

パウロは、死んだ人も復活する。むしろ「死んだ人が先に主と出会うと第一の手紙で書き送っています。そう書いた理由は、「再臨がやって来る前に死んだ人は復活しない」と誤解をしている人が多かったためと考えられます。もうすぐ死ぬのに、再臨がまだ来ないので裁きの時はやってこない。ならば、罪を悔い改めて生活をただすよりも、怠惰なままに生活した方がましだ。そんな考えに流れていくことを防ごうとしたのだと思われます。

かの日、主が来られる日

テサロニケで、迫害にもめげずに頑張っている信徒たちを、ほめたたえ励ましたパウロです。来ないは、復活のことを第一テサロニケよりも具体的に、書き送っています。

テサロニケ『1:8 主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。』

これを読むと、未来形ですから、パウロは再臨はまだ起こっていないこととして書いています。そしてその時を迎えたならば、「燃え盛る火の中を主イエスが来られて、今テサロニケの信徒たちを迫害している者するだろう」と書きました。 テサロニケの信徒にとって、再臨があったのならば目撃するはずのことを書いたことによって、まだその時が来ていないことを教えたのでした。偽預言者が、「再臨はもう来た」と言っていますが、「それは違う」とのパウロからの明確な反論でした

Ⅱテサロニケ『1:10 かの日、主が来られるとき、主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです。それは、あなたがたがわたしたちのもたらした証しを信じたからです。』

かの日、パウロはそう重ねます。まだ再臨なさっていないイエス様。その来臨なさる日にテサロニケの信徒たちは、主イエスをほめたたえることが出来るでしょう。それは、パウロのもたらした証しをテサロニケの信徒が信じ、テサロニケの信徒たちがもたらした証をパウロ達が真実だと信じたからです。信徒同士の証は、信仰を強めいます。再臨の時には、主イエスキリストの前で、私たちはお互いにその信仰の証人となります。そして、その時までは、証をしあうことによって、互いに励ましあうことが出来るのです。