ガラテヤの信徒への手紙1:1-10

手紙の目的


1.ガラテヤ書の目的

 ガラテヤの場所は、現在のトルコの東部アジア州とカッパドキア州の間の地域です。パウロは、この地域には第一回伝道旅行のときからかかわっています。具体的に聖書に載っているガラテヤの訪問地は、ピシディアのアンティオキア、イコニオン、リストラ、デルべ(使徒14章:第一回伝道旅行)です。

 パウロは、ガラテヤという地域のキリスト教徒の共同体にあててこの手紙を書いています。異邦人のキリスト教徒がユダヤ教の律法をどう考えればいいかが書かれています。『使徒言行録』16:6および『ガラテヤの信徒への手紙』4:19によればガラテヤの共同体はパウロ自身が創設したと考えてよいでしょう。そして、信徒たちのほとんどは、かつて異教徒でした。この共同体はパウロが離れた後で、「ほかの福音」を伝えるものたち(教師)が現れ、信徒の間に混乱をひきおこしていました。

 この書簡の「ほかの福音」を教える教師たちがどのような人々だったのかは、他に検証する文献が無いので、パウロの言葉から想像するしかありません。現代の主流となっている見方は、彼らが「ユダヤ教から改宗したキリスト教徒」であったということです。教師たちは異教徒から改宗したキリスト教徒に対し、ユダヤ教の律法を完全に守るよう要求したのでしょう。この書簡からは、割礼、安息日の遵守、モーセの律法の遵守などを巡って意見が戦わされたことがうかがえます。パウロの言葉から推測すると、ユダヤ教からの改宗者たちはアブラハムを引き合いに出して、契約のしるしとしての割礼の意味を強調したようです。さらに彼らは義人ヤコブ(イエス様の兄弟のヤコブ:当時エルサレム教会のシンボル的存在でした)がいるエルサレムの教会を支持し、パウロの使徒として正統性に疑義があったようです。

 また、このような教師たちの言動がガラテヤの信徒たちに大きな動揺を引き起こしました。研究者によれば当時、異教から改宗したキリスト教徒たちは、目に見える信仰の形を求めて、律法の完全な遵守という明快な指針を示した「偽教師たち」に魅力を感じていたと思われます。

 パウロはこのようなガラテヤの信徒たちの動揺について、厳しく指導しています。彼は自分の伝えた福音が「律法からの自由」そのものであったことを、熱く語ります。また、パウロは自らの改心の経緯と使徒としての資格の正当性、さらにエルサレム教会との関係について詳しく述べ、ガラテヤの教会をなんとか福音の原点へ回復するよう、指導しました。

2.あいさつ

 パウロは、自分が使徒となったのは、人間から出たことではないと言っています。使徒となったのは、人による任命ではない。また、私が宣べ伝えている福音は、人によって教えられたのではなく、イエス・キリストの啓示である。と言うことです。

 偽教師たちは、エルサレム教会とのつながりを強調したようです。あなたがたは、エルサレムで教えを受けた偽教師たちの教えを受けることによって、初めて信仰を保つことができる、と教えていたようです。そこでパウロは、大切なのは、イエス・キリストと父なる神様からの任命である。そして、パウロは「死者の中からよみがえられた復活のキリストからの任命を受けた」と言っているのです。

 この書簡の受取人は、ガラテヤの諸教会になっています。この手紙は、一つの教会に宛てられたものではなく、ガラテヤという一つの地域の中にあるいくつもの教会に対して送られたものです。

3.福音に反する教え

 パウロは非常に驚いています。私たちを召し出した神様は、すばらしいキリストの恵みを私たちに下さいました。ところがこの神様を見捨てて、自分たちをがんじがらめにする、「福音とは異なる教え(ほかの福音)」に移って行ってしまったことに驚いています。私たちは、解放と自由を求め、自分を奴隷にするものを拒むのが当然であったのですが、現実に逆行していたのです。

 ほかの福音といっても、もう一つ福音があるわけではありません。教会をかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしていたのです。また、ほかの福音と言っても、実はその中身がまったく異なる、福音とは呼べない代物なのです。

 パウロは、ものすごい強い言葉を用いています。「呪われるがよい」です。地獄へ落ちよ、永遠の滅びへと向かえ、というような非常に強いことばです。それだけ、福音を変えてしまうことが恐ろしいことであるとのパウロの認識が分かります。どんなに信頼できそうな存在が教えたとしても、私たちは「ほかの福音」を決して信じてはいけないのです。 

 パウロが取り入ろうとしているのは、人ではありません。神様であります。父なる神様が、キリストにおいてパウロに恵みを注ぎ、さらに、使徒として召してくだいました。ですから、神様のみを喜ばせることを求め、人の歓心を買おうとしません。しかし、ここに人の陥るわながあります。「ほかの福音」は、なぜ、か、自由をもたらすところの福音ではなく、束縛する律法に移ってしまったのか。それは、人に取り入ろうとする「肉の弱さ」なのです。恵みの福音をもっとも嫌い、抹殺しようとするのは、他でもない人間自身です。私たちは、この迫害を免れたいという思いが働き、人々に受け入れられやすい話を作り上げてしまう誘惑を受けるのです。誘惑のままであるならば、そこには義人はいません。ひとりもいない、そして神様を求める者はいません。人に取りいるならば、すべての者は神様のさばきを受けることになります。これがパウロが書いた警告と教えであります。人ではなく、神様に取り入らなければ、キリストのしもべではないと教えているのです。