マタイ17:22-27

神殿税

 

1.再び自分の死と復活を予告する

 

 イエス様は、弟子たちに自らの死と復活のことを話されていました。そして、山に登りモーセとエリアと会話をしました。すでに弟子たちに、イエス様は神の子であることを弟子たちに知らせていたからです。その一方で、弟子たちはてんかんの子供をいやすことができませんでした。まだ、その時のための準備ができていなかったのです。


 そこで、イエス様は、再び自らの死と復活のことを弟子たちに予告されました。弟子たちは、たいへん悲しみました。つまり、真剣にイエス様の予告を聞いていなかったのです。当然準備もできていません。それ以前に、何が今から起こるのかを心配しているのです。特にイエス様は、「人の手に引き渡されようとしている」と言いました。つまり、この弟子たちの中に裏切るものが出てくると言われたようなものです。弟子たちにとって、それは大変ショッキングな事だったのでしょう。だれが、そのような事をするのか、しようとしているのか?私は、一生懸命イエス様に従ってきているのに、イエス様はまさか私のことを疑っているのだろうか?と考えると、考えるほど悲しくなってきてしまいます。


 結局、弟子たちはイエス様の意図した自立に向けての準備どころか、悲しみでいっぱいで泣き叫ぶばかりだったという事になります。

  

2.神殿税

 

 成人男性は年に1/2シュケルを神殿に納めなければなりません。神殿税です。1シュケルはだいたいデナリだったようです。

(デナリはローマの銀貨デナリウス、シュケルはメソポタミア起源の銀貨)注)アラブのディナールは7世紀


 通貨として一般に流通しているのは、ローマの貨幣デナリウスですから、当然ながらローマの皇帝たちの肖像が入っています。

したがって、ローマの貨幣を神殿に納めるには、「いかなる像も作ってはならぬ」との十戒に触れるわけです。そこで登場するのは、両替商という事になります。ここで、1シュケルを受け取るために、すこし価値の高めのデナリを払うわけです。シュケルはバビロン捕囚の時からユダヤ人が使っていた貨幣になります。

 

 神殿税は、年に一回エルサレムの神殿を礼拝するときに携えていくものですが、カファルナウムと言う田舎町まで取りに来る人がいたという事です。これは宗教的な意味合いよりも、両替商がエルサレムに来られない人相手の商売を始めたと考えた方が良いかもしれません。

 

 ペトロがその神殿税の取り立てにあってしまいますが、こういうケースではいつもイエス様に直接にではなく、弟子たちにってくるわけです。イエス様が群衆に囲まれていて、相手をしてもらうのが難しかったのか?イエス様を畏れていたからかのどちらかでしょう。ペトロは、イエス様が神殿税を納めないのか?と聞かれると、とっさに「納めます」と答えてしまいました。これは、自然のことでしょう。しかし、ペトロは二度にわたってイエス様が神の子であることを聞かされています。そして、多言しないようにも言われています。ですから、ペトロがおっちょこちょいで、「納めます」と答えてしまったのか、「神の子がなぜ神殿税を払うのか?」と言うことを憚ったのか、ここだけでは判断できません。しかし、ペトロが戻ってくると、イエス様の方から話されました。

 ペトロは、イエス様が神の子と知っているわけです。その神の子は神殿(まり、父である神)に税金を払う必要はないだろう という事です。ペトロは自分の無理解にヒヤッとしたかもしれません。また、言い争う事を避けたかったのかもしれません。

 

 結局イエス様は、魚がくわえている銀貨を神殿税として捧げるように言うわけです。その銀貨は2デナリ銀貨か1シュケル銀貨だったのでしょう。イエス様の分とペトロの分がそれで賄われました。