ヨハネ3:16-21

神は独り子を

 ヨハネ3章16節の御言葉は、「聖書の中の聖書」と呼ばれる箇所です。それは、聖書をコンパクトにしていくと、最後はこの3章16節になると言われるからです。

1.神は存在する

 ヨハネは、神様が存在することと、その神様がこの世界のすべてを愛していると宣言しています。「世」とは、創られたこの世界のすべての被造物のことです。神様が存在するのか存在しないのかという事は、私たち人間にとって関心事であります。もし神がいないなら、人間は誰の意志でもなく偶然に生まれたことになります。しかし神様がいるならば、私たちは意志と目的をもって創られた者で、神様の栄光を現わすために私たちは生きているのです。もし神様がいないなら、すべての宗教はむなしく、だましごとになってしまいます。聖書ははっきりとその答えています。「神様はいて、この世を愛しています!」 そして聖書はその証しをしているのです。

 神様を信じない事には、どんな理由があるのでしょうか?いろいろな理由があると思います。ストレートに、「まだ信じていない」(受け入れきれていない)こともあれば「信じたくない」(拒否)もあると思います。もし、拒否をしているならば、その本当の理由は、自分の思い通りに生きたいという欲望です。それでも神様は、神様を知ろうとしないで拒否する私たちをも愛しておられるのです。欲深く頑固な私たちのために、神様が取った救いとは、ご自分のひとり子を遣わして、福音を宣べ伝えさせ、人間の罪の贖いのため十字架に架け、罪人の罪を赦すことでした。

2.世を愛された

 神様の愛はイエス・キリストの十字架によって私たちにはっきりと示されています。神様は人間の不品行や不道徳のすべての罪の責任をキリストに背負わせ、贖いの死を通して罪の赦しを与えます。

 人の命を救うために犠牲が必要としたら、その犠牲となる人は死の恐怖を前にしてためらうでしょう。怖くて尻込みしてしまうかもしれません。しかしそれでも覚悟を決めてという実話もあります。しかし、人を救うためにその犠牲として、「あなたの子どもを差し出しなさい」と言われたら、どうでしょう。自分のいのちを差し出すことより、愛する子どもを差し出すことのほうが難しいとは思いませんか?。しかし神様はそれを選んだのです。愛するひとり子のイエス・キリストを人間の罪のために差し出し、私たちを救おうとしたのです。神様がどれほど私たちを愛しているかが、ここに現れています。この神様の愛に答えていきたいのです。

3.永遠のいのちを持つため

 イエス・キリストの十字架の死は、私たちの罪に対する代償でした。その代償があったからこそ、私たちの罪が赦され、永遠のいのちに与るのです。罪が赦された私たちは、聖霊によって新しく生まれ、永遠の神の国へ入ることが出来るのです。それは、律法を守り行うことによってではなく、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じる時に私たちにもたらされるのです。

  罪深い者なのに罪を赦され、天の国へ行く資格の無い人間なのに、資格ある者とされることこそ、神様の恵みです。天国をお金で買うことは出来ません。まして私たちの努力や行ないでそれを得ることは不可能です。神様のご計画は、私たちが自分の弱さや罪を認めて、神様の導き求めるようになることです。そのとき、イエス様を信じる信仰が与えられ、十字架の恵みによって罪が赦されるのです。

4.世が救われるため

 御子は「裁き」のために来たのではない。また、信じない者はすでに裁かれている、とも書かれています。それは、神様から離れていること自体がすでに裁かれている状態だからです。というのは、神様を信じない者は自分の思い通りに生きていても、心に平安がないからです。なぜなら、思い通りに生きた自分を守るために、誰にも見つからないように隠れ、そしてうそをつくからです。自分の悪が明るみになることを恐れて、神様や人々の前に出るのをいやがります。悪が明るみになると、私たちは取り繕いながら言い訳をします。これでは、平安がやって来るとは思えません。神様に裁かれ、罰を受けていた方がよっぽど、楽なのではないでしょうか?

『3:19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。3:20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。3:21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」』

 イエス様によって「救い」がやってきました。しかし、イエス様を信じないのでは、その「救い」に与ることは出来ません。だから、光に近づけばよいのですが、悪を行っている人々はその悪が明るみになるのを恐れて光に近づきません。その逆で、結果的に善であるとか悪であるとかは関係なく、「善を行おうと心掛けている人」は、光であるイエス様のところに来ます。そこに神様の導きがあるからです。