マタイ1:18-23

その名はインマエル

2023年 12月 24日 主日礼拝

その名はインマヌエル

聖書 マタイによる福音書1:18-23 

クリスマスおめでとうございます。ベツレヘムの蝋燭と真ん中のイエス・キリストの蝋燭を灯りました。 さて、今日の聖書は、イエス様誕生のお話です。ヨセフとマリアは婚約をしていました。当時のイスラエルの結婚ですが、婚約式から始まります。ヨハネによる福音書にあるカナの婚礼は、たぶん、婚約式です。婚約式の最後に、出されたぶどう酒を二人が飲み干すと、婚約が成立というわけです。そこからが大変です。男性側は、結婚の準備のために働いてお金を貯めます。そして、準備が整うと、花婿が女性の家に行って交渉をして、自分の家に花嫁を迎えるわけです。花婿を迎える十人の娘(マタイ25章)の譬えは、この場面です。年単位で待たされるので、いつ花婿が迎えに来るかわからないのですね。ところで婚約すれば、当時も結婚と変わらないぐらい、お互いに責任があります。もし不貞をしたら、石打の刑となる決まりなので、発覚は命の危険を意味します。ヨセフは、マリアが身ごもったことを知りました。ヨセフは正しい人です。正しいと言うことですが、一つは、律法(トーラー)に忠実な人と言う意味です。そして、もう一つは、神様とのかかわりにおいて「義しい人」であります。そのまま結婚してしまって、律法を守ろうとしたならば、マリアは石打の刑に会う可能性があります。ですから、ヨセフは母子ともどもの命を守ることを考えます。正しい人ヨセフは、秘かに縁を切ると決めたのでした。それは、律法を守る事であり、2人の命を救うことであり、そしてヨセフがマリアを失うことでもありました。

 そこに、主の天使が夢に現れます。ヨセフは夢の中で、全部で4回主の天使からお告げを受けました。このヨセフの夢の中に主の天使が現れるのは、マタイによる福音書だけです。そして強調したいのは、ヨセフは夢の中の主の天使の指示すべてに従っていることです。正しい人ヨセフは、神様に対して従順でありました。そして、神様の恵みの中に居ることをいつも選び取っていたのだと思います。

『「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」』

ヨセフは、この主の天使の言葉に従います。名前もイエスと名付けました。イエスと言う名前の由来はご存知でしょうか?。イエスとはギリシャ語で、イェスース。ヘブライ語では、イェシュアです。日本語の旧約聖書ではヨシュアと表記されています。その名前には、神様の名前「ヤー」が入っていて、ヨシュアとは、「ヤーゥエは救いである」という意味であります。

イザヤ『43:11 わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない。』

この預言は、「私はヤーゥエ。私のほかに救い主はない」と言っているわけですから、「ヤーゥエは救いである」とほぼ一緒ですね。イエスと言う名前は、私たちを罪から救い出すために、生まれる神の子であるという、しるしだと言うことです。しかし、ここで重要なのは、ヨセフが主の使いの言葉を信じて、つまり神様を信じで、素直に従ったという事実です。ヨセフへの主の天使の言葉は、理解不能でした。「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」・・・到底、受け入れられないこと をヨセフはそのまま受け入れました。そこに、マリアに勝るとも劣らないヨセフの神様への信頼、信仰があります。


『1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。』

これは、イザヤ書(7:14)の預言がそのまま成就することを示します。「神は我々と共におられる」とは、言葉の通りの意味でありますが、神様であってそして人として生まれたイエス様のことだと読み取ることもできます。救い主の名前として、「神は人と共におられる」が、相応しいのであります。イエス様には、イエスと言う名前。これは「ヤーゥエは救いである」という意味。そしてキリストと言う名前。これは、救い主つまり「王様として油を注がれ祝福された者」をさします。さらに、インマニュエルという名前。「神は人と共におられる」方。そのしるしが、おとめから生まれる男の子であると言うことです。イザヤによって預言された救い主の誕生は、神様の約束が成就したことを示します。このようにイエス様はインマヌエルであるお方ですが、この地上で歩まれた時には、神様としてではなく、一人の人として歩みました。しかもその人としての歩みは「貧しい者として」、「弱い者として」です。誰が、その姿を見て王様の中の王様と思うでしょうか? しかし、人として生まれたからこそ、そして貧しくて弱かったからこそ、イエス様はすべての人に寄り添うことが出きました。友無き者の友となり、人々を癒しました。そして、私たちの罪を背負って、十字架に架けられ、死んで、墓に葬られて、そして復活しました。このイエス様の犠牲によって、私たちの罪が赦されたのです。こうして、イエス様を信じた私たちは救われています。そして、永遠の命にもあずかることが出来ると信じています。もちろん、私たちは罪人であります。救いようのない私たちが、神様の約束によって、救われたのです。神様は、イザヤに預言させ、そして預言通りに2000年前にこの世にイエス様を降してくださいました。

 

 ここで、ヨセフの強い信仰について、もう一度申し上げたいです。ヨセフは、生まれてくる子どもは聖霊によるということを、マリアとともに信じました。マリアが、強い信仰の持ち主であったことは皆さんも認めているでしょう。普通は信じられないはずなのに。マリアは信じ、従いました。そして、ヨセフも主の天使の言葉を信じ、告げられた通りにしました。

 結果として、ヨセフはマリアと結婚しました。めでたし、めでたしだったのでしょうか?。彼女をさらし者にしないで済みましたし、破談することもなく、結婚できました。しかしもう一つ問題がありました。聖霊によって身ごもったことを、誰にも言えない事です。ですから、胸の中にしまったと思います。


 ヨセフの行動を追ってみると、正しさや、誠実さを見ることが出来ます。それから、あわれみ、優しさといった思いやりを見ることが出来ます。このヨセフの神様への従順さや、正しさがあったので、イエス様は生まれたのでしょうか?。マリアが普通の女性であったように、ヨセフもガリラヤ地方の田舎者。建具職人として働き、普通に生活している人にすぎません。目立つところと言ったら、ガリラヤなまりぐらいでしょうか?何の特徴もありませんが、ヨセフには信仰がありました。神様の声に耳を傾け、そして向き合いました。そんなヨセフだからこそ、神様はイエス様を彼の家に預けたのだと思います。


 ヨセフは、夢の中で主の天使の言葉を聞いていました。今日の聖書の箇所の直後にこうあります。

『1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、』

つまり、今日の聖書の箇所は、ヨセフの夢の中であるわけです。婚約中に二人で会うなどは出来ませんから、もしかして、主の天使がすべてをヨセフに知らせたのかもしれませんね。また、夢を見るヨセフというと、ヤコブの息子ヨセフが夢の解き明かしが得意だったことを思い出します。神様の啓示は、寝ている間夢の中に現れるという事かもしれません。一方で、夢に出てきたからと・・・それで突っ走ったら、何が起こるか・・危ないことだと思います。多分、マリアにしても、ヨセフにしても、その主の天使の言葉をそのまま鵜呑みにしたのではなく、一回受け止めてから、しっかりと考えたのだと思います。そして、考えてわかるようなことではありませんから、やはり、神様に祈って求めた結果だと思います。こうして、神様が約束しイザヤが預言した、救い主の誕生は成就したわけです。イエス様は、神の子ですが、人の子として育ち、そして最も貧しくて弱い人々、そして罪深い私たちに寄り添いました。それは、神の子であってそして人の子であったからこそ、出来たのです。罪を裁くのではなく、赦す。そして、その人の罪は、罪のない者であるイエス様がすべてを背負ってしまう。そこまでしないと、私たちはその深い罪から抜け出すことは出来ないからです。私たちは、自分で罪から脱出することが出来ません。だから、神様は私たちのためにその独り子をこの世に送ったのです。そして、私たちは、その恵みに与ることが出来ています。私たちは、神様に愛され、そしてイエス様の十字架の犠牲によって、罪を帳消しにしてもらっています。いま、この時も私たちは罪を犯しているでしょう。でも、神様の愛の結果として、私たちは無条件に赦されました。ただ、そのために、イエス様の十字架での犠牲がありました。

 イザヤ書の苦難のしもべをお読みします。これは、イエス様のことを預言した箇所です。

イザヤ『53:1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。53:2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。53:6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。53:7 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。53:8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。53:9 彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。53:10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。53:11 彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。53:12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。』

 神様は、イエス様を犠牲にしました。しかし、それは、何のためか?私たちを救うためです。

ヨハネ『3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。』

インマヌエル、イエス様は神の子として、そして人の子としてクリスマスの日に生まれました。クリスマスおめでとうございます。