エフェソ2:1-10

 神の賜物

2021年 1月 10日 主日礼拝

『神の賜物』

聖書 エフェソの信徒への手紙2:1-10 

先週は年が明けたころにあったであろう、占星術の学者が東方からイエス様を拝みに来たお話をしました。イエス様の生涯はこの様な葬りの準備から始まりました。

わたしたちクリスチャンは、イエス様の一つ一つの物語とみ言葉の中で生かされていますし、イエス様の生涯そのものを私たちのための犠牲であったことを感謝しています。神様は、その独り子イエス様を天から地へと降されました。神の独り子、イエス・キリストが人の姿となって、お生まれになったのです。そしてその布にくるまれた幼な子は、十字架の出来事に向かってその歩み、やがては復活に至りました。聖書を、イエス様を信じた人の「証し」として読むことによって、イエス様の物語は、神様から頂いた恵みとなるのです。クリスマスの物語、そしてイエス様の生涯は、わたしたちにとって「神様からの賜物」そのものです。

イエス様は、今でも私たちに寄り添って歩んでくださっています。

 

 さて、先日新型コロナウィルスに対して緊急事態宣言が出されました。教会としても、政府や都の方針に協力していきたいと考えます。具体的には、今日の執事会で話し合って、行きます。今日この場で、皆さんにお願いしたいことは、第一に「皆さん自身の健康を考えてください」という事です。これまでもコロナ対策をしてきていますので、何をすればよいかはよくご存じだと思います。一言、私が付け加えたいのは、市中感染率が高くなっているので、今までとは違うという事です。リスクが低い行動をとることで感染を防止しようとしても、リスクがゼロになるわけではないのは言うまでもありません。リスクがかなり低い行動であっても、回数や時間を積み重ねることによって、感染リスクは高まっていきます。例えば、感染している人が2倍に増えていれば2倍リスクが高くなりますから、今までと同じくらいに感染リスクを抑えるためには、人と会う回数、人とすれ違う回数等を半分にする必要があります。

 しかしながら、外出などしないわけにはいきませんから、体調への注意等で、免疫力を高い状態に保つという対策も合わせてください。具体的には、疲れをとるために、よく休み、よく食べることです。そして、少しでも無理をして体をいじめないようにお願いします。私たちの経験では、インフルエンザに同じ傾向があったと思いますが、「鼻かぜぐらいでは休めない」として、無理をした結果、高熱を出してしまう。そんなことは避けなければなりません。

 そして、コロナウィルスは人の思惑通りには、いきません。ですから、私たちもいろんな意味で生活を保つために、行動を変える必要があるでしょう。コロナにかからない事、コロナが蔓延するようなリスクの高い行動を控える事、そして日常生活を維持すること、教会生活も守る事にバランスよく取り組みましょう。

 

今日の聖書の箇所でありますが、エフェソの信徒への手紙を書いたパウロは、エフェソの信徒たちに向かって、あなた方は『自分の過ちと罪のために死んでいた』と書き送っています。かなり、刺激的な言葉です。もともと、エフェソの教会はパウロが伝道していました。その関係で、パウロはエフェソの信徒のことを良く知っていました。決してエフェソの教会に、「昔 やんちゃだった人」が多かったことを意味しているのではありません。エフェソは大きな港町で、ユダヤ人から見ると異邦人の街です。その異邦人の街で、パウロがキリスト教を広めていたわけですから、エフェソの教会の人々は、キリスト教の信徒に変えられる前は所謂(いわゆる)「神々」を礼拝していました。ユダヤ教やキリスト教では、神様を知らないことが罪ですから、異邦人は罪深い人ということになってしまいます。特にエフェソの街は、オリンポスの女神アルテミスの神殿があって、異教の一大中心地だったわけです。そこには、オリンポスの神々を刻んだ像であふれていました。そういう意味で、エフェソの街は、本当の神様を知らずに、人の刻んだ神々を礼拝している街で、「罪」を代表しています。

パウロは、あなた方は『自分の過ちと罪のために死んでいた』と言いましたが、過ちとは何を指しているのでしょう。原語(παράπτωμα :a false step, a trespass)的には、無意識のうちにうっかり、滑ってしまって、足元を踏み外すようなことを指していますので、過ちは「罪」と言うよりは、「知らず知らずに正しくない立場をとっていた」という意味になります。

 

パウロは、異教の教えに従っていた人たちに、厳しいことを言っているようで、実際は、「本来神様の怒りを買うはずの異教徒をも、憐れみ豊かな神は、この上なく愛してくださった」と言っているのです。そして、異教徒たちがキリスト教に改宗したのは、神様の愛によるものなのです。意図したわけではなく、その生まれ育った国の宗教を受け入れていた異邦人です。神様を知らない事は「罪」なのですが、そこに何の意図もない異邦人たちは、神様に愛される対象であり、そして救われる対象だと言えます。

 

パウロは続けます。

エフェソ『2:5 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――』

ここに書かれている罪を原語から読むと、先ほどの「過ち」の意味で使われています。つまり、「神様は、つい、うっかり死にかけていた私たちを、キリストが伴って生き返らせ」と言う意味になります。パウロは、なにも知らずに「罪」を犯していた私たちをイエスキリストによる救いの恵みに与らせてくれている。そのようにパウロは、異邦人によりそった立場で、神様の愛が異邦人にも向けられていることを強調します。

 

 神様の愛によって、イエス様の恵みによって信仰を受け入れた異邦人ですが、パウロは忠告を加えます。

エフェソ『2:8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。2:9 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。』

 

 異邦人たちが、救われたのは、異教の神々を捨てたからでも、イエス様を選んだからでもありません。

イエス様を信じたからです。

神様の賜物であるイエス様の恵みに与ったから、イエス様を信じることができたのです。決して、私たち人間が神様であるイエス様を選んだからではありません。そして、救われるためには何の条件もありませんでした。私たちが救われたのは、一方的な神様の愛によって、何の条件もなしにイエス様の恵みが共にあったからです。そして、すべての人がイエス様の恵みに与ることができるようにされたのは、神様です。

 パウロは、自分の力や行い(ἔργον: work)で救われるのでは無いと言いました。パウロ自身がかつて、律法を第一に生きていたころ、その律法を守るための行いを誇っていました。しかし、どんなに律法に従う行いをしたところで、魂の救い 平安は来ませんでした。しかし、イエス様と出会って、イエス様の恵みのただなかにいることによって、行いを誇ることは必要がなくなったのです。行いの結果に頼らなくても、すでに救われているからです。私たちは、その救いに感謝します。そして、行いに誇ることなく、自然にできる事をする。こうして、イエス様と出会った事によって、平安が与えられるのです。

 

もし、皆さんの中で、自らの行動を基準に「私は救われるのだろうか」と考えることがありましたら、安心してください。「行いでは、救われません」。ですから、行いのことで、ひどく悩むことは必要が無いのです。もし、行いで救われることがあるのであれば、私たちは救われるために行いをしなければならなくなります。そして、どんなことをすればよいのでしょうか?そして、どれだけ頑張ればよいのでしょうか?さかさまに言うと、・・・どれだけ手を抜いても大丈夫なのでしょうか? 


 少し言葉遊びになってしまいましたが、この様に悩み事の種は、無限に広がっていきます。自らの行いで救われようとするならば、そこに平安は遠ざかるばかりです。ですから、安心してください。「行いで、救われるわけではありません」。

パウロは、「神の賜物」によって救われると言っているわけですが、10節の言葉を加えて説明しています。

エフェソ『1:10なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。』

これを読むと、最初にあったのが、神が前もって準備してくださった「善い業」。そして 善い業のために「私たち」がキリスト・イエスにおいて造られた。

だから私たちは、神様の目的を行うと言うのです。

 一方で、「行いでは、救われません」とも言います。
(「善い業」の業と「行い」は、原語では、「働き」と言う同じ言葉が使われています。)


ということは、善い行いであっても、行いそのもので救われることがないという事になります。言い方を変えると、「善い業」は、神様の目的とするところでありまして、救いの条件や手段ではないということです。そしてさらに言えば、神様があらかじめ準備した「善い業」とは、人から出た思いではありません。神様自らが、善いと判断される業ですから、私たちは十分には理解できないのです。

しかし、パウロはこのように説明します。人は、神様があらかじめ準備した「善い業」を行うように、キリストによって造られている と。イエス様を信じ、祈ることによって、私たちは、神様があらかじめ準備した「善い業」ができる。私たちは、そのように造られているのです。

 

 あらかじめ神様が準備された「善い業」。私たちは、その全体を知ることはできません。そして、神様からの賜物を頂いた感謝に答えようと思うのですが、何ができるかと言ったら、普段やっていること以上のことは難しいです。しかし、特に何もできない私たちが、何の条件もなく神様の愛によってイエス様の恵みに与っています。ですから、私たちは希望を持ちますし、そして平安がそこにあります。神様の一方的な愛に感謝して、そして「善い業」のために働いてまいりましょう。