ルカ15:1-10

 見失った羊

 

 

1.「見失った羊」のたとえ 

 徴税人は、ローマの支配を受けているユダの国で税金集めを請け負っている人です。ですから、ユダの国を裏切って、ローマ側に着いた裏切り者であり、犯罪者と同一視されていました。実際必要以上に税金を徴収することで、富を蓄えているのですから、罪人と呼ばれる資格は十分にあります。また、ユダヤ人にとっては、徴税人とは親しくしたくないので、食事で同席をすることなど考えられません。一方で罪人ですが、ファリサイ派の人々や律法学者は、神様の前では罪人でしかありません。しかし、彼らの定義では「罪人とは、律法を守らない人」なので、彼らは一般の市民のことを指して、罪人呼ばわりしていました。つまり、上からの目線でもって、罪人を裁いて(差別して)いたのです。もちろん、これは神様の裁きではありませんから、壊れてしまった秩序を取り戻すものではありません。そして、単純に律法を守らなかった者に罰を与えるのが目的であり、相対的に彼らの地位が上がることで自尊心をくすぐるほかは、百害があるばかりで、誰も得るものはありません。

 ファリサイ派の人々と律法学者は、罪人と食事をしませんでした。少なくとも、同じテーブルに着くことはなかったのです。しかし、イエス様は罪人と同じテーブルで食事をし、そして会話をしました。罪人にイエス様は寄り添ったのです。一方、ファリサイ派の人々と律法学者は、当然町の名士である自分たちのついている席にイエス様が来るものと思っていました。しかし、それはかないません。彼らも、罪人なのは間違いないのですが、イエス様は、彼らのテーブルに行かなかったのです。イエス様は、より困った者のいるテーブルを選んで席に着いたからです。そのため、ファリサイ派の人々と律法学者は、イエス様について、不満を言います。『「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」』

 そこで、イエス様は「99匹の羊と、一匹の迷った羊」の譬えを話しました。

このたとえでは、「一匹の迷った羊を助けるために、99匹の正しい羊は協力してくれ」と言っているようです。つまり、ファリサイ派の人々と律法学者に、「あなた方は今、安全で助けが要らないのだから、迷っている羊に私が対応していることに不満を言いなさんな!」とイエス様は言ったわけです。なにか、ファリサイ派の人々と律法学者を持ち上げているようで、いつものイエス様はどうしたのか?と思ってしまうような発言です。しかし、続ける言葉は、いつものイエス様のようです。

『悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。』

これは、「悔い改めようとする必要がないとして悔い改めないファリサイ派の人々や律法学者と食事をするよりも、今、罪を認めて悔い改めようとしている人と食事をし、交わることに大きな喜びがあり、天はその悔い改めようとしている人のものである」と言った趣旨であります。ファリサイ派の人々と律法学者は、間違いなくもひどい罪人であります。そして、悔い改める必要がないとして、上から目線で同じ罪人であるはずの律法を守らない(守れないほどの貧しい)人々を裁いていたにすぎないのです。彼ら上から目線の人々の席にイエス様が来る時とは、彼らが悔い改めようとする時まで待つしかありません。イエス様もその時を待っておられるのです。

2.無くした銀貨のたとえ

 ドラクメ銀貨:ギリシャの歴史上のドラクメ銀貨。ドラクメ銀貨1枚で4ドラクマでした。聖書に出てくるデナリが、ローマの銀貨デナリウスでありますが、1デナリも1ドラクマも、一日の賃金相当とされています。ですから、銀貨一枚で3万円以上の価値があったものと思われます。

 わたしたちでも、3万円も無くしたら家じゅうを探し回るに違いありません。しかも、徹底して荷物を動かして、あらゆる場所に光を当てて探すことでしょう。そして見つかった時、ひとりで喜ぶのではなく、家族と一緒に、そして近い人々と一緒に喜ぶことでしょう。

 同じように、神様から離れていた人が神様に立ち返ったならば、神様も信仰の友も一緒に喜ぶのです。神様に立ち返るとは、まずわたしたちが自身の罪を知り、そして悔い改める事です。罪と通常呼ぶこととは、犯罪や迷惑行為や手助けを避けることや嘘偽り等であります。これらは、人の前の罪でありまして、もちろん悔い改めの対象であります。一方で、神様の前の罪は、神様を礼拝しない事、そして神様以外を礼拝することです。神様以外とは、偶像や他国の神々、そして己の貪欲であります。神様を愛しているならば、神様以外を礼拝することは出来ないはずですが、貪欲に負けているならばまだまだ悔い改めが必要です。それでも、貪欲に負けまいとさらに悔い改めようとしているならば、神様はそのことを喜び、私たちを助けてくださいます。そして、貪欲に負けてばかりいるわたしたちをも、神様は赦してくださるのです。

 イエス様は、このようにファリサイ派の人々や律法学者にも、悔い改めをする機会をお与えになりました。しかし、彼らは、いまだに、「わたしには悔い改めが必要ない」と思っていたことでしょう。私たち人間すべては、罪人です。ですから、神様の前に悔い改めなければなりません。そして、イエス様に信頼して従っていこうとイエス様を通して神様に祈れば、イエス様を信じる信仰が与えられます。神様は、イエス様を信じた者の罪をお赦しになりますから、わたしたちには平安が与えられるのです。信仰と救いのすべては、罪への悔い改めに始まるのです。そして、神様は罪がないことではなく、その悔い改めを喜んでくださるのです。