ルカ5:1-11

沖に漕ぎ出して

202年1月16日 主日礼拝

 沖に漕ぎ出して

聖書 ルカによる福音書5:1-11

おはようございます。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と、イエス様は後に弟子となるシモン・ペトロに言われました。イエス様がペトロに声をかけたのは、ゲネサレト湖畔です。ゲネサレト湖とは、ガリラヤ湖のことですが、この湖の北西の平地がゲネサレトと呼ばれている関係から、このようにも呼ばれるようです。ガリラヤ湖には魚が多くいるので、それをとる漁師もいました。当時から、ピーターズフィッシュ(ペトロの魚)と呼ばれるティラピアとイワシが取れていたようです。ペトロが他の漁師たちといっしょに網を洗っていた時でした。ペトロも、この日は、明け方まで漁をしたのですが、一匹も魚がとれませんでした。ペトロが使っていた網は、投網ですから一晩中漁をすると、水草や小石やごみが絡まっています。それらを洗い落として、網を干すのですが、その作業をするということは、漁をやめたことを示します。一晩中網を打っても、魚が取れないことも、本職の漁師でもあるのでしょう。勘と経験で船を出しても、そこに魚がいなければ網を打ってもとれないので、場所を変えながら漁をしていたのだと思います。ペトロの時代には、漁師の「勘」がすべてでした。文字通り空振りで、ペトロはもうあきらめて、網を洗っていたのでしょう。


 そんなペトロのところにイエス様が来て、ペトロの舟に乗って岸にいる群衆を教えられました。一番近いところでイエス様の言葉を聞いたのはペトロでした。その教えが終わった時、イエス様は「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」とペトロに声をかけました。プロの漁師が一晩じゅう働いて一匹も取れないこの日に、しかも日が昇ってしまって漁をあきらめたのにもう一回漁をしなさいというは多少無茶なことだと思われます。また、漁師の常識として、魚は浅瀬にいるわけですから、普通は「もう網を洗っちゃったからやめときます」と断るところだと思います。しかし、ペトロはやんわりと、魚はとれるはずがないと主張します。

「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」

この時のペトロの気持ちとして、「真昼間に沖で魚をとろうなんて、それは無理です」と言いたかったのでしょうが、ペトロはすぐに思いなおして「お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と言います。ペトロはどちらかというと感情的で、突っ走ってしまう人でした。しかし、ペトロの良いところは、考え直すことができる、失敗してもやりなおすことができることでした。「お言葉ですから」とイエスに従うところがいかにもペトロらしいです。


 ペトロが沖に出て網を下ろしてみると、網が破れそうになり、舟が沈みそうになるほどの魚が取れました。そして、イエス様はそのあとペトロに「今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と言われます。ペトロが人々に伝道するようになる、しかも、多くの人を救いに導くようになると言われたのです。イエス様は、伝道の仕事を弟子たちに、そして今日の私たちに託してくださいました。


 伝道は教会に託された使命であります。わたしたちは、真昼間には魚が取れないとか、浅瀬にしか魚はいないとして、伝道の機会を見過ごしているのかもしれません。イエス様は、そんな私たちに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と語りかけてくださいます。であるならば、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」とお答えしたいと思います。せっかく長い間準備をし、講師を招き、祈りに祈って伝道集会をしたとしましょう。しかし、誰も信じる人が起こされなかったら、牧師も信徒も「空っぽの網を洗うような」気持ちになるでしょう。 しかし、イエス様はそんな私たちのところに来て、「もういちどやってごらん」と声をかけてくださるのです。「あきらめてはいけない」と、私たちを励ましてくださるのです。また、イエス様は私たちが今まで考えたこともなかったような伝道、私たちが出会うことのなかった人への伝道に導かれるかもしれません。いつの時代のどこの国にも、人々には深い心の求めがあります。そのような求めに答えいくような教会になっていきましょう。そのためには、まず私たちは少しだけ乗っている船を沖へ漕ぎ出していきたいと思います。


ペトロはたくさんの魚がとれたのを見て、思わずイエス様の足もとにひれ伏して言いました。

「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」。

ペトロがイエス様の奇跡を見たのは、これがはじめてでしょうか?。今まで何度かイエス様の教えを聞き、そのみわざを目にしてきたと思われます。しかし、それは他の人に起こった出来事でした。今度の奇跡は、ペトロ自身の上に起こったものでした。信じて疑わなかった漁師としての腕をはるかに超えるイエス様の奇跡を体験したのです。ペトロは、イエス様が魚さえも支配されているお方であることを知り、大変恐れました。イエス様の前に恐れをもってひれ伏し、自分の罪を認め、悔い改めたのです。


 このとき、ペトロは創造主であるイエス様を知ったのです。聖なるお方イエス様を受け入れたのです。教会は、そういった出会い。イエス様と出会う場所です。教会は、私たちが単に聖書の「物知り」になることのためにあるのではありません。教会は、聖なるお方を知り、礼拝し、イエス様に仕えるための場です。イエス様を知った私たちは、自分の罪を認めざるを得なくなるのです。このお方の大きな愛、赦しの恵みの前ではじめて、私たちは、みせかけの衣を脱いで、あるがままの自分になることができるのです。教会では、さまざまな聖書箇所から学びます。どの学びも、イエス様を聖なるお方としてあがめることにつながるようにと願っています。



 イエス様は、ペトロやヤコブ、ヨハネに「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と言われると、彼らは漁れたばかりの魚も、網も、舟も、それこそ「何もかも捨てて」イエスに従いました。イエス様は、この後も弟子を加えながら、どこに行くときでも弟子を訓練しました。この弟子たちの集まりは、教会の原型です。イエス様を中心に互いに仕えあい、イエス様の使命である伝道をしていく群れ、それが教会です。イエス様には、世を去られた後、イエス様の使命をひきついでいく教会の姿がすでにあったのです。この教会の交わりの中にいて、イエス様への信仰が育つのです。その点、コロナ過で多くのキリスト教会は試練の時を迎えました。教会での交わりなしに、礼拝はZoomでとなりますと、どうしても説教が中心の一方向の礼拝になってしまいます。そして、一緒に賛美することや交わりを持つ機会が奪われます。ですから、Zoom等リモート会議のシステムは便利ですが、教会としては、礼拝での応答や信徒同士の交わりが奪われるようなところがあります。Zoomで礼拝をしている教会の牧師たちの話を聞くと、「何か、神様との一対一の信仰となって、そこに兄弟姉妹との関係性が薄くなっている」 等と言っています。また、教会まで行かなくて済むということが便利なので、なかなかZoomを始めると、やめるのが難しいようです。一方で、教会の無い地域でひとりで信仰を守っていらっしゃる方もいるわけですが、一人であっても、手紙や電話など、何らかの手段で他のクリスチャンとの接点を持っていて、教会につながっています。決して、ひとりぼっちのクリスチャンではないのです。キリストのからだである教会のために働くことによって、教会のかしらであるキリストに仕えることができます。そして、キリストにある兄弟姉妹たちと仕えあうことを通して、教会が成長することができるのです。


しかし、教会の兄弟姉妹に気をつかいながら行動することが先になってしまっては、キリストに従う前に人に従うことで疲れてしまいます。ですから、キリストに仕えることを第一にして、キリストを通して兄弟姉妹に仕え、交わることになります。教会の交わりは、学びあいそして伝道すると言った目的を持っています。イエス様の教えを学び、ともに歩み、ともに伝えること、この目的を見失わないように、励ましあってまいりましょう。


 また、教会の交わりは祈りの交わりです。もちろん、教会でも食事の交わりや、楽しいおしゃべりの時もあります。そうした面も教会には必要です。しかし、他のグループではやらないことが、教会の集まりにはあります。それは、互いに祈り合うということです。お互いの必要のために、教会のために、社会のために祈り合うところ、そこにイエス様は共にいてくださり、私たちの交わりを豊かなものにしてくださいます。どこの教会でもそうですが、祈り会の参加者が特定の人になってしまいます。祈り会に新しいメンバーが望まれますし、そもそも教会は祈り続けなければ、存在しえないのです。家にいるとき一人で祈ってください。また、家族同士で祈りあってください。また、教会の兄弟姉妹と祈り合うことは必要なことです。


 また、互いに祈りあうためには、教会の交わりを深めることも必要です。そのためには、教会でゆっくり過ごす時間の余裕が必要です。教会には多くの奉仕がありますので、それほどゆっくりできるわけではありません。しかし、どこかでゆっくり交わりを深めることで、祈りあうことがさらに祝福されます。どうしたら、教会での良い交わりの時を持つことができるか、みんなで知恵を出し合っていきたいと思います。


 「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」

私たちは今、イエス様が一緒に乗られている舟にいるのです。そして、イエス様の命令によって、漕ぎ出そうとしているところです。信仰と祈りをもって、恐れることなく少しだけ沖に漕ぎ出しましょう。イエス様ご自身が、共にいてくださるのですから、かならず奇跡を起こしてくださるでしょう。