エレミヤ書10:1-10a 

まことの神を礼拝せよ

2023年 5月 21日 主日礼拝

まことの神を礼拝せよ

聖書 エレミヤ書10:1-10a

今日は、預言者であるエレミヤ書から、み言葉を取り次ぎます。エレミヤ書は、イザヤ書やエゼキエル書と並ぶ三大預言者と呼ばれています。

 エレミヤと言う人は、エレミヤ書の他に哀歌を書いたとされています。時期的には、紀元前7世紀末から紀元前6世紀前半、バビロン捕囚の時期に活躍しました。父も祭司で、ベニヤミン族の祭司たちの町に生まれています。そして、神様の言葉を 預ってユダ王国の人々に届けました。

 エレミヤの預言を聞いた王様は、ユダ王国のヨシヤ王以降の代々の王様です。ヨシヤ王は宗教改革などをして、良い王様と言われていますが、エジプトのファラオであるネコと戦ってしまい。殺されてしまいます。その後は、ユダ王国は混乱の時が来ます。エジプトの傘の下に入ったり、新バビロニア帝国に降伏したりで、国が大きく揺れ動いていました。そんな時、エレミヤは ユダ王国が滅ぼされることを預言したのです。またエレミヤは、新バビロニアのネブカドネザルの軍隊を「神の軍隊」と呼んで、「神様が、ユダ王国を滅す」と預言しました。しかし、ユダの人々は、エレミヤの預言には耳を貸しませんでした。

 さて、どうして神様はユダの国を滅ぼそうとしたのか? 少しばかり、説明が必要です。ヨシヤ王のときに、神殿の大修復が行われました。そのときに律法の書が見つかります。

王下『22:8 そのとき大祭司ヒルキヤは書記官シャファンに、「わたしは主の神殿で律法の書を見つけました」と言った。ヒルキヤがその書をシャファンに渡したので、彼はそれを読んだ。』

 なんと、驚きです。律法の書とはモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)のことですが、失われていたのです。聖書が失われていて、どのように神様を礼拝していたか・・・もっととんでもないことが起こっていました。神様ではなく、バアルなどの異国の神々を礼拝していた。それが事実です。ヨシヤ王は律法の書を読むと、衣を割いてこのように命令します。

王下『22:13 「この見つかった書の言葉について、わたしのため、民のため、ユダ全体のために、主の御旨を尋ねに行け。我々の先祖がこの書の言葉に耳を傾けず、我々についてそこに記されたとおりにすべての事を行わなかったために、我々に向かって燃え上がった主の怒りは激しいからだ。」』


 これを機会に、ヨシヤ王の宗教改革が始まります。神様がユダの国を滅ぼすと宣言していることを知り、徹底的に異国の神々を捨て去り、そして神様に立ち返るように命令しました。その内容を見ると、こんなにまでと思うくらいですね。聖書にも、神殿には異国の神々が祭られていたことが書いています。

王下『23:4 王は大祭司ヒルキヤと次席祭司たち、入り口を守る者たちに命じて、主の神殿からバアルやアシェラや天の万象のために造られた祭具類をすべて運び出させた。彼はそれをエルサレムの外、キドロンの野で焼き払わせ、その灰をベテルに持って行かせた。23:5 王はユダの諸王が立てて、ユダの町々やエルサレム周辺の聖なる高台で香をたかせてきた神官たち、またバアルや太陽、月、星座、天の万象に香をたく者たちを廃止した。』


 さらに、列王記下26章には、神々を捨てる記事が続きます。神殿の中が異国の神々を祭る場所となっていたからです。そして、エルサレムの町のあちこちには、その神々を礼拝するための高台があったのです。さらに驚くべきことがあります。過ぎ越しの祭りすら伝承されていなかったのです。この記事からすると、ダビデの時代にはすでに、過ぎ越しの祭りは行われなくなっていたことがわかります。

王下『23:22 士師たちがイスラエルを治めていた時代からこの方、イスラエルの王、ユダの王の時代を通じて、このような過越祭が祝われることはなかった。

23:23 ヨシヤ王の治世第十八年に、エルサレムでこの主の過越祭が祝われた。

23:24 ヨシヤはまた口寄せ、霊媒、テラフィム、偶像、ユダの地とエルサレムに見られる憎むべきものを一掃した。こうして彼は祭司ヒルキヤが主の神殿で見つけた書に記されている律法の言葉を実行した。』


 さて、今日の聖書を読んでいきましょう。

『10:1 イスラエルの家よ、主があなたたちに語られた言葉を聞け。』

ヨシヤ王の宗教改革の記事から見ると、イスラエルの民は、全くもって律法を無視していたと言えます。異国の偶像を礼拝していました。その礼拝の対象は木を刻んで作った物であって、木工が鑿をふるい、金銀で飾った物にすぎません。生ける神ではなく、なぜそのように人が作ったものを礼拝するのでしょうか? 人が刻んだ木像など、動くこともできないし、災いを起こす力などありません。そして、幸いをもたらすこともできないのです。


 とは言いながら、偶像に 何の害があるのでしょうか? 何もできない偶像ならば、私たちに直接的な利害関係はできません。それなのに、偶像の危険性を熱心に教える神様の意図は、どこにあるのでしょうか。・・・なによりも重要なことは、偶像の危険性を警告できるのは、神様しかいないことです。偶像とは、言ってみれば人間の欲望を形にしたものです。ですから、偶像を礼拝することは、自分の欲望を正当化し、また周囲の人々に勧めることになわけです。偶像を否定すればよいではないか、と思うかもしれません。しかし、私たち人間の中にある欲望は、この偶像をも利用しようとするのです。また、神を選ぼうと言う人間には、すべての偶像を否定することは、困難であります。結果として、偶像をそこに置くのを許すことは、私たちの欲望を肯定し、育てることに繋がります。もう一度整理します。偶像の神々は、人間の中にある欲望が、都合の良い神々を創りだしたものです。だから、あくまでも「人間の思いのために」、人間によって造られたものなのです。したがって、偶像の神々は人を欲望に導いたとしても、最後には幻想となります。欲望を満たし続けることは不可能ですから、満たしえない欲望が最後まで残るからです。だから、「まことの神様」は、偶像を礼拝する者に対して警告するのです。罪を犯さないように。その警告を受けているにも関わらずです。愚かなことに人々は神様の警告を聞き入れることなく、偶像の神々を自分で選び取ったのです。自分の神を選ぼうとするからです。それは、「罪」そのものです。


 ところで、人が作った偶像の神々とは、偶像そのもののことではありません。偶像そのものの実態は石や木そして金などで飾られた、物質でしかないからです。だから、その像そのものが神々だと言うことにはなりません。もちろん像は人が作ったものです。しかし、問題としているのは、偶像そのものではなく、そういった姿をしている神々のイメージを作ったのは人だろうと言うことです。人が作ったであろう神々への礼拝は、神様の警告にもかかわらず、ユダの人々の心を捉えていたのです。都合で自分の神を選んだ「罪」がそこにあります。


 さて、今日の聖書では、最初に「聞け」と注目を促して、このようにエレミヤが命令を取り次いでいます。

『10:2 主はこう言われる。異国の民の道に倣うな。天に現れるしるしを恐れるな。それらを恐れるのは異国の民のすることだ。』

異国の民の道とは、偶像礼拝の事です。神様は、モーセの十戒をイスラエルの民に授けた時、このように言いました。

出『20:2 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。20:3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。20:4 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。

20:5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。』

 このように十戒を授かった時から、偶像礼拝は禁止されており、「神様を愛するならば、幾千代も慈しむ」と約束されているのです。そして、「神様以外に神々があってはならない。」この戒めは、人間自身が自分の神様を選ぶなどの尊大な態度も含んでいます。それから、天に現れるしるしですね。これは、バビロニアのカルディア人が長けていた天文学の事です。かわいい言い方をすれば、星占い。つまり、吉凶を星で占うわけです。良く知られているのは、日食とか月食を予告して、未来を予測できるかのように見せつけることです。そういうしるしを利用して、世の中を怖れさせ支配するわけです。とは言いながら、正確な暦が出来れば、季節の農作業や災害への備えになるので、天文学は有益だったわけです。一方で、星で将来を占って、その結果で、喜んだり、怖れたりする。こんな根拠の薄いことに、この時代の人々ははまっていたと言えます。神様を礼拝するよりも、星に将来をうかがう。これは、偶像礼拝と同じように、自らの欲望のために星を礼拝しているようなものです。そのようなことにかかわらないで「まことの神」だけを礼拝すべきです。しかし、神様よりも、私たちは欲望が大切なのでしょうか?私たちは、この神様の戒めがあるにもかかわらず、自分に負けてしまうのです。こうして、人間の欲望が偶像や星を礼拝する迷信を作り出し、育てます。

 神様はまことの神です。これらの偶像の神々とは、全く異なる存在です。神様は生ける神です。偶像には、意志もなければ、動くこともできません。しかし、神様は生きており、私たちに命を与えることが出来ます。私たち人間が怖れるべきことは、人間の欲望が起こす迷信の闇です。まことの神様の栄光は、その迷信の暗闇とは対照的に、明るく輝いています。私たち人間は自身の欲望に負けないようにしなければなりません。神様に祈るときもそうです。私たちは、ああしてください、こうしてくださいと祈ります。しかし、祈りの最後には、御心の通りにと、神様にすべてをお任せします。この手順で祈るのが正しいのです。なぜ、このような面倒な手順を踏むかと考えてみましょう。一つは、イエス様がそのように教えたからです。

マタイ『6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。』

これは、主の祈りの「みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ」のところですね。イエス様は、お祈りのお手本として、「御心が行われるように」祈りなさいと教えたわけです。そうすると、偶像礼拝のように自分の欲望をぶつけたままではなくなります。神様に、その思いを伝えた結果として神様が動かれることに信頼しているわけです。もう一つの理由は、すべてを神様に委ねる。それによって、私たちは欲望の呪縛から解放されるのです。偶像礼拝との大きな違いはここにあります。まことの神様を礼拝する。それは、神様に感謝を捧げ、賛美し、自分の願いを祈り、そして神様にゆだねる。これがまことの礼拝なのです。このまことの神様への礼拝を毎週、大切に守って、神様の恵みに与ってまいりましょう。