ヨハネ1:1-18

すべての人を照らす光

 ヨハネがこの福音書を書いたのは、だいたい紀元90年ごろとされています。イエス様がよみがえられて、弟子たちに聖霊が降ってから、もう60年近くたっていました。福音は、イエスが約束したとおり、エルサレムから始まり、ユダヤとサマリヤ全土、そして地の果てにまで伝えられました。ヨハネの晩年は、エフェソの主教をしていたとされています。つまり、アジア州の中心の伝道拠点で中心的役割を果たしていたわけです。そして、このころにはマタイとマルコとルカによって福音書が記されており、教会で用いられていました。また、その前には、パウロの書簡が礼拝で読まれていました。そして、12使徒は、ヨハネを除いてみな殉教しています。ヨハネ自身も90歳ぐらいです。

 なぜ、すでに3つある福音書を新たに書く必要があったのでしょうか。それは、ヨハネの中に、イエス様とはいったい誰なのかという問いがあったからだと考えられます。


1.言(ことば)

 「言」とは、ギリシャ語でロゴス(λόγος)ですが、原理や秩序など信じられないくらい広く多角的な意味を持ちます。「語りうるもの全て」をロゴスと呼びますし、何事も先にロゴスがあると古代ギリシャでは考えられていたようです。物を作るのに設計図が必要ですが、その設計図を描くための概念設計が頭の中にあるのと同じです。ですから、天地創造をしたときにも、その概念設計を頭の中に持っていたお方がおられるわけです。そのお方が「言」であります。そして、イエス・キリストこそ「言」です。

イエス様は、天地創造のときにすでに神様と共におられました。そして、イエス様は神様でした。天地を創造されたのです。イエス様の内には「人間を照らす光」があって、暗闇にいる私たちを照らそうとしているのです。しかし、イエス様を信じないものは、闇を打ち消すその光をふさいでしまったのです。

2.光であるイエス様

 バプテスマのヨハネが神様から使わされていました。ヨハネはイエス様の証のためにやってきました。全ての人がヨハネによって神様を信じるようになるためです。ヨハネ自身は光ではありませんでした。光について証しをするために来たのです。イエス様が光です。イエス様こそ真の光であり、全ての人々の心を照らすのです。

 イエス様はこの世にあって、この世を作られました。しかし、この世はイエス様を神様として認めませんでした。イエス様は自分の民であるイスラエルに来ましたが、イスラエルの民は受け入れませんでした。しかし、イエス様はイエス様を信じた者たちには「神の子ら」となしました。この「神の子ら」は、家柄(血)によってではなく、生きるための必要(肉の欲)によってではなく、むさぼり(人の欲)によってでもなく、神様によって命を与えられたのです。

3.独り子であるイエス様

 イエス様を信じるその根拠を挙げてきました。イエス様が「天地を創造した神」であること、そして「人間を照らす光」であることです。そして、ここでは「神の独り子」です。

 イエス様は、人と同じ肉体をもつ姿となって、私たちの世に降されました。イエス様を信じる者は、その栄光の姿を目撃しました。神様の独り子であるからこそ、神様はこの世にイエス様を降されたのです。もし、そうでなければこれほどの恵みはなかったでしょう。神様は、唯独りのお子だからこそ、私たちのために生贄として差し出されたからです。それは、神様が私たちを愛してくださっているからです。それが真実です。

 バプテスマのヨハネは、イエス様について証をしました。

「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」

 「わたしの後から来られる方は、わたしより先におられた」という説明は、そのままでは理解できません。しかし、聖書には最初からいて、そして最後におられる方が出てきます。そうすると、

「アルファでありオメガである」(黙示録1:8,21:6)イエス様を思い出すでしょう。

黙示録『22:13 わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。』

バプテスマのヨハネは、イエス様のことを神様であると証をしていたのです。イエス様の豊な恵みのさらにその上に恵みをうけたと証ししました。律法と心理はイエス様によって示されたのです。神様を見たものはひとりもいませんが、神様の独り子であるイエス様によって、神様を示されたのです。イエス様が神様の独り子であるからこそ、イエス様を通して神様がわかるのではないでしょうか?