エゼキエル書34:1-16

主こそ真の牧者

   神様は、エゼキエルを通して「イスラエルの牧者」(イスラエルの王・為政者)に対して、厳しいことを言います。

1.災いだ

彼らは、羊の群れ(イスラエルの国民)を養うことをしていなかったのです。ですから、人災だと断言し語ります。

『災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。』

本来為政者は、国民を養い守る者です。しかし、為政者は自分自身を養いました。羊の乳を採っては飲み、羊の毛を刈って服に仕立て、そして肥えた羊の肉を食べますが、羊に食べさせないし、弱い羊や病にある羊を助けなかったのです。そして、追われたり、失われたりした羊は放っておかれました。そして、ますます残った羊を一方的に支配するだけでした。こうして、羊であるイスラエルの国民は、あちこちで迷い、散らされたままなのです。そのため、イスラエルの国民は略奪され、諸外国に侵略され続けています。

 神様は、為政者がやるべきことをしないので、とうとう追い払うことを宣言します。また、それだけではありません。民への救いの手を差し伸べることを宣言したのです。

『34:10 主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。』

民を導く為政者がふさわしい務めを果たさないと、その被害は弱い者である民がこうむります。その結果、民の多くはバビロンに捕囚されました。また、捕囚を免れても国がうちすてられたままなので、食べていくことが出来ませんでした。生き延びるためには、外国に散っていくしかないのです。神様は、自らの手でその希望の無くなった状態の民を救い出すことを宣言しました。

イスラエルの牧者たちの権力の源は神様にあるはずです。そうとすれば、彼らの利己的な支配を止めさせるのもまた神様です。神様は、世界を支配されている真の王として、民を救うとの意思がここに明らかにされています。

2.自ら自分の群れを探し出し

神様は、具体的にこれからのご計画をお話になりました。為政者たちが養わなかったこと、つまり民を放置して養わなかったし、癒さなかった結果の悲惨な状態を変えることから始めなければなりません。ですから、神様ご自身が具体的にどのように民を集め、養い、癒すかを宣言されました。

『34:16 わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。』

神様は、エゼキエルを通して滅んでしまったイスラエルの国をもとの様に戻し、民を連れ戻すことを約束されました。イスラエルの民は、捕囚から連れ戻され、そして他国に塵尻になってしまった民をも探されるのです。しかし、強くなってしまったもの、強くなって肥え出したものは、滅ぼすと言われます。為政者たちの様に、神様からの力によって養われているにも関わらず、神様の権威を使って弱い者からかすめ取るのは不公平だからです。

神様が歴史を支配しています。ですから、このイスラエルを救うご意思は、真の国王としての正義と公平によって、ご自身が直接実現することを、明らかにしています。

イスラエルの滅亡、捕囚、民の離散の原因は、「イスラエルの牧者」であった国の為政者の罪です。私腹を肥やした罪、そして民を養わなかった罪に原因がありますが、その結果もたらされたイスラエルの民の悲惨さを、神様は見捨てることはなかったのです。しかし、この神様の意思は、すぐには実現しません。実現するまでの間の希望をイスラエルの民に持ってもらうために、神様はこれから起こすことをエゼキエルに明かしました。この意思を示された神様が歴史に介入することこそ、悲惨な民の現実を変えられる唯一の力の源なのです。わたしたちもまた、真の王である神様の支配と導きの中に入れられていることを覚える時、私たちは平安の中にいます。