マタイ8:18-35

嵐を静める

 1.弟子の覚悟

  イエスについていくかどうかで、「自分の意志で従っていく」と言った律法学者と、「先に葬式を済ませたい」と言った弟子。イエス様も、律法学者には「何もない生活だよ!」、弟子には「従いなさい!」と真逆の受け答え方をしています。また、その結果誰が従ったか?律法学者ではないと誰でも思うでしょう。

 律法学者は、「たくさんの物を持っている」中で、一つだけ気がかりで経験していないのが「イエス様に従う生き方」でした。そして、弟子は「何もない生活」の中で、一つだけ気になるのが「父の葬式」。律法学者は、「たくさん物を持っている」その生活に、心をおいているし、弟子は「父の家」に心を置いていることがわかります。そして、一つだけ気になることとは、「やっておきたい」といった未練なのでしょう。しかし、よく考えてみると、その気がかりと言うのは、そもそもそこに 賭けて生きるような事ではなかったのでしょう。結局、二人とも本来の仕事を続けたという事だと思います。

8:22 イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」

 この言葉は、意味が分かりにくいです。死んでいる者は、霊的に死んでいると読む人もいます。霊的に生かす仕事をを休んで 死んだ人の始末をしたいと言ったことを たしなめたという趣旨です。また、葬りと言う言葉ですが、ユダヤでは、埋葬は死んだその日が沈む前に終わらせます。家から離れている弟子が、葬りに間にあうわけがありません。また、葬式に間に合うくらい近くにいるなら明日の朝には戻る事になりますので、このくらいのことまで制止することも不思議です。そういう理由から、強くイエス様が「私に従いなさい」と言うとしたら、「父を看取りに行かせてください」という意味だったと推定することもできます。

2.嵐を静める

  文面通りに受け止めるよりも、小説的な描写だと思った方が解りやすいでしょう。イエス様に従って、「なにもない生活」に弟子たちの心の中は嵐だったと読み取ることが出来ます。イエス様と一緒であれば、「大丈夫」。いつも守られていて感謝。等 弟子たちがイエス様を信じていたとは素直には言えないのです。そして、イエス様は「しるし」をいつも弟子たちの目の前で示されます。しかし、弟子たちは、その「しるし」を間近で見ながら、まだイエス様を本当の意味では信じることができなかったのです。そして、十字架の時復活のを経て、弟子たちは、復活されたイエス様を信じました。それまでの間、弟子たちは数々の「しるし」を見続けるのです。弟子たちの心のには、時々嵐がやってきて、イエス様によって静められたのです。

3.悪霊に取りつかれたガダラの人をいやす

 向こう岸とは、ガリラヤ湖の東側。ガダラは、デカポリス(10の都市)の一つ。ガリラヤ湖は水深が深いため、しばしば海のように荒れます。カファルナウムから舟でガダラに上陸すると、悪霊の取りつかれた者が墓場からやってきました。墓場から、湖が見えたのでしょう。また、狂暴な人は誰にも相手にされませんから、近づいてくるのは よそ者だけなので、それを見逃すようなことはなかったのでしょう。

 突然「神の子」とイエス様を指して言います。簡単に説明すると、「イエス様が来たために苦しい」と言うことです。イエス様が、この二人から 悪霊を追い出そうとしていたのでしょうか? それとも、この二人に取りついた霊が、先回りして、「他の生きる道」をイエス様に交渉しに来たのでしょうか? 動機はわかりませんが、結果としてその悪霊、「豚の群れの中に追い出してくれ」と、頼みます。この地方は、異教の地ですから、豚を食べるために飼っていたのでしょう。そのたくさんの豚に悪霊が入りました。そして、水の中で死んでしまいます。たくさんの悪霊なので「レギオン」(マルコ、ルカ)と言う名だったようです。レギオンはローマの軍隊の師団で6000人ぐらい。つまり、6000頭もの豚が死んだことになります。町の人たちは、イエス様を追い出します。人が救われたことより、完全に豚の方の被害に視線が行っているのです。