ルカ6:12-19

 使徒を選ぶ


1.使徒を選ぶ


 イエス様が選ばれたの弟子は、特別に優秀な人たちだったわけではありません。十二人の中には「漁師」「徴税人」や「熱心党員」と相応しそうでない職業の者もいました。イエス様を裏切った代表例として、ペテロやユダがいますが、裏切りが予測されながらも、イエス様は彼らを選んだのです。「使徒」は「遣わされた者」という意味の言葉です。彼らが「使徒」と呼ばれるようになったのは、彼らが聖霊の力を受けて伝道へと遣わされたあとです。つまり、遣わされるまでは、「使徒」とはあまり呼ばれていなかったのです。 


 この使徒たちが宣べ伝えたのが教会の信仰であり、毎週礼拝で唱える信仰告白が「使徒信条」(バプテストでは、教会ごとに信仰告白があります。内容は、使徒信条を信徒たちの言葉で表したものです)と呼ばれているのも、それが使徒たちの信仰だからです。そして、「使徒」と呼ばれるのは、イエス様がお選びになった十二人が後に教会の信仰の礎になったことを示します。ルカは、イエス様が十二人を選ぶのに先立って、「夜を徹して神に祈られた」(6:12)ことを強調しています。


 イエス様の救い主としての地上の歩みは、祈りに始まり祈りに終わります。そして「夜を徹して祈られた」のは、イエス様が捕らえられる直前の「ゲツセマネの祈り」とこの箇所のみです。そこに、十二使徒の選びがいかに大切な、深い祈りによってなされたかが示されています。


2.病人を癒す


 イエス様と使徒たちが共に山を下りて平らな所に立つと、大勢の弟子とおびただしい群衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、またアシェルの地※ツロとシドン(現Tire、Cidon)の海岸から教えを聞くため、また病気を癒してもらったり、汚れた霊を追い出してもらううために押し寄せて来ました。

イエス様は彼らの病気を癒やし、悪霊を追い出しました。イエス様は、ご自分の中から出る大いなる力によって働きました。(6:17-19)

※アシェル(Asher)は、『旧約聖書』の『創世記』に登場する人物。ヤコブの第8子で、レアの女奴隷ジルパが産んだ第2番目の子供であり、アシェル族の祖。地中海沿岸のイスラエルの最北の地域の事。


 イエス様が十二人を選んだもう一つの目的は、「弟子たちを宣教に遣わす」ためでした。弟子たちがイエス様と共に山から下り、2人組で宣教に励んだように、実際は12弟子とイエス様は別行動をとることが多かったのです。当然のことですが、6つのグループに分かれて伝道したならば、同時に6か所で伝道が出来ますから、より広い地域で、多くの人たちと交わり、宣教し、癒すことが出来るからです。弟子たちが全員集まっているときにイエス様がお話している場面を福音書で見ますが、ちょうどその時と言うのは、イエス様が弟子を集めて弟子を教育していると考えても良いでしょう。しばらくすると、また分かれ分かれになって伝道をするわけです。私たちもその点見習う必要があるのかもしれません。礼拝を捧げた後、それぞれの生活の場所に遣わされていきますから、み言葉を携えて周りの人々と接することに努められれば、素晴らしい伝道となると思われます。


 「使徒」とは、「イエス様から伝道の使命を与えられて、イエス様を信じる者を代表して遣わされる人」です。私たちは、イエス様の弟子であるだけではなく、現代に派遣された使徒でもあるのです。


3.イエス様に触れようとする民


 現代の使徒として立てられた私たちは、どんな務めを果たせるのでしょうか。何もできないとは言っても、祈ることだけはすべての人に可能であります。父なる神様に祈り、そして事あるごとに祈って歩まれたイエス様です。私たちもイエス様に倣い、神様に祈りながら歩みたいと思います。そして日々、遣わされている場所で、イエス様と出会った喜びと、神様の愛を証ししています。打ちひしがれている人を勇気付けする能力はなくとも、お話を聞くことは出来ます。そういう小さい働きの意味で、元気を失っている人を慰め励ますことは出来るのでしょう。


 しかし、私たちには、イエス様のように人々は集まってきません。当然のことですが、わたしたちは、イエス様の行われた通りに奇跡を起こすことが出来ないからです。イエス様は、病を治し、悪霊を追い出し、そして「神様を愛すること」、「自分を愛するように隣人を愛する」ことを教えました。実際に、病が治り、日常の生活を取り戻すことが出来た人々がたくさんいました。そして、律法学者が教えるような「掟」ではなく、「神様を愛し、人々を愛する」神様の掟を教え、そして人々に神様の平安をもたらしていたのです。人々は、そういう力のあるイエス様を知ると、イエス様を探し、そして追いかけ、しまいには手でイエス様を触れて、その力にあやかろうとしたのです。それと同じ働きは、私たちには無理です。これは、残念な事でもなければ、悲しいことでもありません。なぜならば、私たちは、イエス様のようにはできないことを、最初からわかっているからです。イエス様も、そのことは十分ご存知の上で私たちを用いられています。


 私たちは、伝道のために立てられていますが、このような理由から、失敗も赦されています。なぜなら、私たちは、イエス様のようにはできないからです。完璧な者は、その使命に対して失敗できません。ですからむしろ、私たちは、完璧でないことを感謝しなければなりません。なぜならば、完璧でない私たちですから、最初から赦される予定で、私たちはイエス様から用いられているのです。そして、期待されていないとしてがっかりする必要はありません。イエス様は、私たちが今できる事、今イエス様を見習えることを始めようと祈っているところを、喜んでご覧になっているのです。そして、その小さな祈りに力を与えてくださるのはイエス様であります。私たちは、安心して、イエス様の力添えを待てばよいのです。