マルコ1:21-28

最初の信仰告白

2023年 1月 22日 主日礼拝

最初の信仰告白

聖書 マルコによる福音書 1:21-28           

今日はマルコによる福音書から、最初の礼拝のとき、イエス様が悪霊を追い出した記事からお話します。

新共同訳聖書の解説によると、

【◆悪霊(あくれい) 精神的,肉体的な病気や障害など,人間に災いをもたらす霊。「汚れた霊」(マタ 12:43)と同じ意味(マタ 8:16,マコ 1:32,ルカ 11:14,24)。】とあります。

 悪霊とは、聖書の中ではほぼ新約だけで使われる言葉です。(旧約聖書のサムエル記上には「神からの悪霊」(サムエル上16:15等)という表現が出てきますが、他にはありません)現代のイメージとは異なりますので、悪霊について当時の理解を知っておきたいと思います。

 というのは、一般的に時代や地域や宗教によって、悪霊の意味が違うと言うことです。初期のキリスト教では、悪霊について現代の意味あいよりもかなり広い範囲をさしていたようです。例えば、

 ルカ『9:1 イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。』とあるように、悪霊は病気の原因とされていました。ですから、現代では治療法が確立している病気についても、当時は悪霊が原因とされていたわけです。つまり、当時の悪霊とは、人に害をもたらす原因となるものを広く指していると言えます。

 次に「霊」とは、何を指すのかを辞書で調べてみると、

「 肉体と独立して存在すると考えられる心の本体」つまり、人や動物の霊と、「 目に見えず、人知では はかりしれない不思議な働きのあるもの」つまり、聖霊や悪霊などのはかりしれないものを指します。

 ですから、「現代で言う霊」とは神様や悪霊や人の性質や働きそのものであり、肉体と独立して目に見えないものを「霊」と呼んでいることになります。

 さて、旧約の時代はどう考えられていたかです。聖書大辞典で調べると、旧約にある「霊」は、翻訳が不適切なのだそうです。旧約に「霊」とあるのは、「生命を与える神の息」の事であります。そして、この旧約の「霊」は、他の神々つまり偶像の神々とは相いれません。また、新約聖書にたくさん出てくる「悪霊」を追い出すようなエピソードは、旧約聖書にはありません。その理由は、バビロン捕囚時代にイランの文化の影響を受けたのだそうです。ですから、バビロン捕囚前の時代には「悪霊」の概念がほとんどないとされています。

と言うことで、新約聖書では、「人に都合の悪いことをするのは、すべて悪霊の仕業」とされていることを理解ください。

 新約聖書では、「魔力を持った悪霊が人々を悩ますので、イエス様が追い出した」と読める物語が多く収められています。そのまま書いてある通りに受け止めてもかまわないのですが、 わたしは、少し違った視点でお話ししたいと思います。イエス様は、病をいやした以上に、心を病んでいる人々に平安をもたらしたのだと思います。神様を信じ導かれることを望んで祈ること。心配事が多すぎて祈るその「声」も出なく弱っている人々を、そして、もちろん祈っている人々を、イエス様は神様にとりなしました。こうして、イエス様は、わたしたちに「神様と共にいる平安」をもたらしたのです。ですから、魔力を持った悪霊とは、「神様とわたしたちを分断しようとしている霊」つまり、「わたしたちの不信仰」や「心身の病」も指すのだと考えるのです。


 さて、今日の聖書で、「一行」とされているのはイエス様と弟子たちのことです。弟子になったばかりのシモンやアンデレ、ヨハネやヤコブが少なくともそこにいました。この日はイエス様と一緒に会堂に出かけます。そこで、イエス様の説教を聞いた人々のおどろき。それが22節にあります。

『1:22人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。』

イエス様の説教を聞いた人々は驚きました。この驚くという元のギリシャ語は「ひっくり返るほどに驚いた」という意味をもっています。通常会堂で聖書の話をするのは、「律法学者」と呼ばれる人たちで、聖書の専門家です。この聖書はこういう意味です。「神様はわたしたちにこの掟を守ることを求めておられますよ。」そう言った立場からの説教です。ところが、イエス様の話は「掟のおしつけ」ではなくて、まるで自分で聖書を書いた本人であるかのように、聞いたこともない豊かな話をしたと思われます。


 これは、やはり驚くべきことなのです。と言うのは、宣教は、自分の事のように語るのではなく、神様は何を語らせようとしているのか?を中心とするからです。 わたしたちにとっては大変困難な事なのですが、イエス様ならば、たしかに自分がその聖書を書いたような語り口で、自分の事のように語ったことでしょう。イエス様の話しぶりは柔和であり、人々の質問には丁寧に答えました。そしてイエス様は、人々を愛し、教え、いやします。そのようにふるまうイエス様は義しいお方であり、イエス様の存在そのものが、「権威ある者」のように見えたのだと言えます。

 そして、もう一つの出来事です。イエス様が教えていたとき、会堂で叫んでいた男がいたのです。聖書には「汚れた霊につかれた人」とあります。誰が見ても、「悪霊にとりつかれたような」雰囲気の男がいました。彼は、イエス様の宣教の途中で我慢が出来なくなって、大声を出してしまっています。どうしてその男が「悪霊にとりつかれたような」状態になったのかは、聖書には書かれていません。しかし、いつの時代にも、そして誰であっても「不安等を抱え」ていると、心が不安定になってしまうことはあるのです。当時は、そういう場合、悪霊にとりつかれたと考えました。もしこの男が現代で言う、躁鬱病であるならば、当時であれば悪霊に支配されていると考えても不思議はありません。そして、そういった病には、だれでもかかる可能性があります。聖書はそういう状態を「悪霊に支配されている」ように表現したわけです。


 この男は、イエス様にこう語ります。

『1:24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」』

 元の文は、直訳すると、このようになります。

「何のかかわりがあるのか?滅ぼしに来たのか?ナザレのイエス。何なのかはわかっている。神の聖者だ。」

この断片的な叫びの中に、自身をコントロールが出来ていないその男の状況が感じ取られます。

 この男が言おうとしたことをまとめると、次のようになります。

 「ナザレのイエス、あなたが聖なる方だとわたしは知っている。(そして自分は聖なる人間ではない。)だから、なんのかかわりもないではないか?。それでもわたしたちを滅ぼしに来たのか?」 しかし、このように理性的な話ではなく、断片的な叫びをあげているところに、その男の「心身」は病んでいたと思われます。

その男に対して、イエス様は「黙れ。この人から出て行け」と言われました。この時イエス様は、その男をいやしたのです。このいやしも、イエス様の権威を表しています。


 これが、弟子たちがイエス様と守った最初の礼拝でした。きっと衝撃を受けたことでしょう。今、見たのは何だったんだろうと理解が追い付かなかったはずです。そして、イエス様が心と体が病んで苦しんでいたであろうこの男を解放されるという権威ある業を、人々は目の当たりにしたのです。


 イエス様は、権威ある者として新しい教えを、礼拝で教えました。このカファルナウムは、イエス様の本拠地となる場所です。そして、イエス様のそばにはシモン、アンデレ、ゼべダイの子ヤコブとヨハネの4人の弟子がいます。なぜか、弟子たちは、おとなしく何も言いませんし、何もしません。それから、人々の中にはファリサイ派の人々や律法学者もいたはずです。しかし、彼らは人々の中の一人となって、イエス様の教えと、悪霊にとりつかれた男へのいやしを見て、驚いていたと思われます。こうして、最初の礼拝は守られました。ここでは、将来イエス様を十字架につけようとするファリサイ派の人々も、そのとき逃げてしまった弟子たちも、イエス様の権威に驚いていたのです。しかし、よくここを読んでみると、誰も信仰を表していません。つまり、驚くべき新しい教えと、いやしの業に感心はしました。そして、イエス様がガリラヤ一帯で有名になった。と言うことだけだったのであります。

 人々は驚いて互いに論じあいながら、「権威ある新しい教えだ。」と評価しました。この評価は、なぜか「教え」が強調されています。いやしや悪霊払いは後回しになっています。新しい教えのほうを驚いたからです。いやしの業は、イエス様の権威の裏付けの一つとして見たのでしょう。しかし、実際にイエス様のなされたことの重大な結果は、悪霊に憑かれた男をいやしたことです。そしてこの男の生活は、神様の恵みを受ける生活へと取り戻されたのです。この奇跡にも見えるいやしの業は、すべての人を救いに導こうとされているイエス様であるからこそ、そのもてる権威で行えたのです。

 このイエス様にいやされたこの男は、この記事の中で唯一の「信仰告白」をしています。それは、イエス様のことを『神の聖者だ。』と叫んだことです。

それは、・・・とりついていた悪霊が言った言葉では・・・? とお考えの人もいると思います。もし、悪霊が存在するとの前提に立ったならば、それは信仰告白とは読み取れません。一方で、悪霊がとりついていたのではなく、この男に心の病があって、それをいやしたのだとの前提に立てば、『神の聖者だ。』との信仰告白は、明らかにこの男から出ているのです。

 どちらを取るにしても、イエス様によっていやされたことは、そこにいあわせた人々すべてが理解しました。そして、これまで聞いたことのない教えを話し、男から悪霊を追い出したイエス様が、権威ある者に見えました。しかし、人々はイエス様のことを神の子だとは信じるような応答はしていません。ところが、悪霊にとりつかれた男だけは、違いました。イエス様に応答をした結果、その男は変えられたのです。しかしそれ以外の人々は、イエス様のこの業を見ても応答しなかったのです。ただ、驚いて感心しただけでした。


 これが、マルコが伝える「イエス様への最初の信仰告白」です。礼拝は、わたしたちの心を取り戻すために神様がわたしたちに備えてくださったものです。どうか、み言葉に感心するだけではなく、イエス様の言葉やイエス様の愛に応答しましょう。どれほど、心が疲れていても、どんなに大きな問題を抱えていたとしても、苦しんでいたとしても、イエス様はそのようなわたしたちにみ言葉を与えてくださいます。そしてまたわたしたちがしっかりと神様に立ち返って生きることができるように、いやしてくださいます。