出エジプト13:17-21

神の導き・荒れ野の道 

1.ペリシテ街道

 地中海沿いの道が、カナンに最短なペリシテ街道です。シェルに至る道と王の道路とあわせ、3本の街道が、主な交易ルートでした。モーセは、そのいずれも選んでいません。むしろ後戻りすることが困難な荒野の経路をとります。

(まっすぐにカナンに向かえば、すぐに着いてしまいます。そこで戦って負けることを考えると、前にも進むことはもちろん、エジプトに戻ることも困難になります。だから、モーセはペリシテ街道を進むことができなかったと思われます。)

2.ヨセフの骨(ヨシュア記)

 ヨシュア『24:32 イスラエルの人々がエジプトから携えてきたヨセフの骨は、その昔、ヤコブが百ケシタで、シケムの父ハモルの息子たちから買い取ったシケムの野の一画に埋葬された。それは、ヨセフの子孫の嗣業の土地となった。』

3.雲の柱 火の柱

 雲の柱、日の柱は神の臨在を示します。この出エジプトの記事が、聖書に出てくる最初の雲の柱、火の柱です。以後、神様が降りてこられるときに、象徴的に雲の柱や火の柱が現れます。(詩編を含め 旧約で計13か所)

 昼は、灼熱の太陽で熱射病にならないように雲が現れ、夜は道からそれてしまわないよう、火で照らしたとも読み取られる方もいます。この柱は、以下の記事の様に、海を分けるときに大活躍しますが、その後 先導はしなくなったのでしょう。記事には、これを最後にイスラエルを先導する柱は出てきません。

 出エジプト『14:19 イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、14:20 エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。14:21 モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。14:22 イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。14:23 エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た。14:24 朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍をかき乱された。14:25 戦車の車輪をはずし、進みにくくされた。エジプト人は言った。「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」14:26 主はモーセに言われた。「海に向かって手を差し伸べなさい。水がエジプト軍の上に、戦車、騎兵の上に流れ返るであろう。」14:27 モーセが手を海に向かって差し伸べると、夜が明ける前に海は元の場所へ流れ返った。エジプト軍は水の流れに逆らって逃げたが、主は彼らを海の中に投げ込まれた。14:28 水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。14:29 イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んだが、そのとき、水は彼らの右と左に壁となった。14:30 主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。』

神様がいて、御使いがいて、雲の柱がいて、火の柱がいます。雲の柱が竜巻や砂嵐、火の柱が火山噴火や、彗星と自然現象として説明されることもありますが、これだけ、いくつも重なる自然現象とは考えにくいところです。また、空から状況を見ながら、エジプトと戦っている神様の業も説明ができません。水を分けるような風を考えると、1mの高さまで噴き上げて水の壁を作るならば、時速500kmぐらいの風が必要です。しかも、風向きによっては、吸い上げてしまうので、かえって水面が上がります。台風が、風速60m/sぐらい行きますが、それでも時速200kmぐらいです。物理現象としては、説明ができない範囲となっています。

この物語は、超自然現象なのか、神話なのかと言うことを考えるよりは、信仰によって書かれた物語と考えれば、その不合理さに注目しすぎる必要はないでしょう。また、トンボロ(陸繋砂州)だというような 無理な解釈 も無用だと思います。そもそも、木造の車輪をつけた戦車は、砂地など進むことはできません。海が乾いたところを、走れるわけがないのです。ですから、海岸に近い砂地や岩場で、戦車と戦うことは考えられません。あったとしても、騎兵や歩兵が戦ったのかもしれません。ところで、エジプトの王は、いつも戦車に乗って最前線で戦うのが役割ですから、ファラオを象徴する戦車は、この物語に必要だったものと考えます。ここで、聖書が語っているのは、神様は常にイスラエルの民と共にあり、先導し、戦ったということだと考えて良いでしょう。この物語の記者は、神様の不思議な導きを表現したかったに違いありません。