使徒3:11-26

ペトロの二回目の説教

   

 ペテロは、神殿の「美しの門」で、足の不自由な男を癒しました。そのことで、奇跡を見て驚いている人々に向かって「ペトロの二回目の説教」が始まります。早速、彼らのいた神殿内のソロモンの回廊には、人がたくさん集まってきます。

 

1.二つの質問

 一つ目は、「なぜこのことに驚いているのか」ということです。まことの神を知らない異邦人ならまだしも、アブラハム、イサク、ヤコブの神、私たちの先祖の神様を知っているあなたがたユダヤ人が、こんなことで驚いているのはおかしいということです。これまでも神様による超自然的な出来事をイスラエルの民だったら知っているはずです。

もう一つは、「なぜ、私たちの力によって彼を歩かせたかのように見つめるのか」ということです。その当時、「神々を祭る国」では、奇跡を行った人を見ると、礼拝しようとしました。(たとえば、使徒14章8節では、パウロの癒しの業を見て、パウロとバルナバを拝もうとした群衆が描かれています。) ペテロは、この足の不自由な男が癒されたのは自分たちの力でも、自分たちの信仰からでもないと明言しました。それは、イエス様の力ですから、ペトロはイエス様のことを証しし始めます。

 

2.誰の力か?

 ここでペテロは、この男が癒された理由がペテロとヨハネにあったのではなく、イエス様にあることを強調しています。神様がイエス様に栄光をお与えになり、このイエス様を信じる信仰のために、この人の肉体も心も強くし、完全に癒されたのです。イエス・キリストは十字架につけられて一度死んで、その死からよみがえり、今もここで生きて働いておられたということです。 

 すばらしかったことに、単に足の不自由な男が癒されたのではなく、歩くことも癒されたという事です。具体的には、歩くためには、歩こうと言う意思が必要です。そして、歩こうとする意志の背後には、すべてを失っていて「なされるがまま」にしていた今までの生き方を捨て去り、新しく生まれ変わる必要があります。そういう意味で、ペトロの癒しは、完全でした。

 この足の不自由な男は、イエス・キリストの御名によって、イエスによって与えられた信仰によって、「完全なからだ」にしていただきました。イエス様への信仰によって救われたからです。私たちには、救いが与えられているのです。イエス・キリストは、今日の私たちにその救い、平安と喜びを与えてくださるのです。聖霊を通して、今も働いておられます。

 

3.イエス様の証

 神様は、イエス様に栄光をお与えになられました。このイエス様を神様が立ててくださったのにもかかわらず、イスラエルの民がそれを理解できなかったのはどうしてなのでしょうか? 言い換えると、神様が送ってくださった救い主であるイエス様をどうして殺してしまったかという問いです。

 イエス様は神様の愛する子でした。神様はイエス様を救い主とされたのです。ペテロは、イエス様こそがキリスト、救い主であったのだと証しするのです。ここで、ペトロはイスラエルの民が無知であったと言います。少し前のペトロもそうだったように、イエス様が救い主であるとは、確信できていなかったからです。

私たちは、重大な事実を受け止めています。それはイエス・キリストのことです。イエス様は神様が栄光を与えられ、一度は十字架につけられて死なれましたが、神様はこのイエス様をよみがえらせました。このイエス様こそ、旧約聖書で預言されて来た、救い主なのです。このイエス様を見つめ、求めなければならないのです。私たちの人生に大きな神様の御業がありますように、イエス様に祈って期待していきましょう。