マラキ3:8-10

私を試してみよ

2021年 1月 31日 主日礼拝

『私を試してみよ』

聖書 マラキ書3:8-10 

 今日から一週間は、日本バプテスト連盟の協力伝道週間です。連盟には、「何々週間」と言うのが、4つあります。神学校週間、教会学校月間、世界祈祷週間、そして協力伝道週間です。

日本バプテスト連盟のHPには、連盟の活動についてこの様に書かれています。

『各個教会は、それぞれ自主・独立ですが、バプテストの群れに連なる兄弟姉妹として互いに協力し、励まし合って、一つの教会では出来ない協力伝道を推進しています。」これからも「自立と協力」に基づくバプテスト教会の形成、協力伝道に取り組んでいきます。』

その活動に必要なお金を集められているのが、協力伝道献金です。そういうわけで、今日は年に一回、献金についてお話をする機会となっています。


 すでに、経堂バプテスト教会では、予算による支出を終えていますが、この年度末の時期に、協力伝道献金のお願いが全国的に行われているので、簡単に説明します。

その使い道ですが、まず、協力伝道です。協力伝道には、3つあって、その使い道は人材育成、国内伝道、海外伝道です。この協力伝道は、連盟への協力伝道献金で賄われます。そして、忘れてはならないのは、女性会が世界祈祷献金を担っており、壮年会が神学生への奨学金を支えていることです。これを計算に入れると、連盟の収入の約1/4が協力伝道に使われています。そして、その活動を支えているのは、連盟事務所およびボランティアのスタッフです。連盟事務所の職員は、このコロナ過において協力伝道献金が減ることから、給与カットという事になってしまいました。このような事態ですので、全国の教会で支えていく必要があります。

 

今日の聖書はマラキ書です。マラキはヘブライ語で「私の使者」、「私の天使」という意味だそうです。聖書からは、マラキがこのマラキ書の筆者であると言うことしか、マラキという人物のことを知ることはできません。マラキとは、エズラ記を書いた祭司のエズラだという説はありますが、一般的には預言者の誰かであるとされています。

 

マラキ書が書かれたのは、ネヘミヤ記、エズラ記などの時代です。エルサレムは、神殿の再建を許されていました。バビロン捕囚から帰還してきた民が長年かかって、廃墟となっていた神殿を再建しようとしていましたが、近隣の国から邪魔をされて進みませんでした。

そこに転機は、やって来ます。ユダヤ人であるネヘミヤは、(アケメネス朝)ペルシャの首都、スサの街で王様(アルタクセルクセス1世(在位465-424BC)の献酌官)に仕えていました。ある日、故郷のエルサレムから尋ねて来た兄弟の話を聞いて、心を痛めます。

ネヘミヤ『1:2 兄弟の一人ハナニが幾人かの人と連れ立ってユダから来たので、わたしは捕囚を免れて残っているユダの人々について、またエルサレムについて彼らに尋ねた。1:3 彼らはこう答えた。「捕囚の生き残りで、この州に残っている人々は、大きな不幸の中にあって、恥辱を受けています。エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままです。」1:4 これを聞いて、わたしは座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天にいます神に祈りをささげた。」』

 

 ネヘミヤはエルサレムに行く決意を固め、王様の許可を取りました。そして王様から、多くの便宜をはかってもらって、属国ユダヤの総督としてエルサレムに向かいました(紀元前445年)。そして様々な妨害に会いながらも、52日でエルサレムの城壁を修復します。その働きぶりは、ネヘミヤ自身がこの様に書き記しています。

ネヘミヤ記『5:14 アルタクセルクセス王の第二十年に、わたしはユダの地の長官に任命されたが、その日から第三十二年までの十二年間、わたしも兄弟たちも長官の給与を一度も受け取らなかった。5:15 わたしの前任者は民に重荷を負わせ、パンとぶどう酒に加えて、銀四十シェケルを徴収した。彼らの配下の者も民を圧迫した。しかし、わたしは神を畏れ、そのようなことを決して行わなかった。』

 

このようにして、ネヘミヤがユダヤの総督としてやってきたことで、エルサレムの神殿はようやく再建されました。また、神殿の再建がかなったとき、祭司エズラによって律法が朗読されました。(「ネヘミヤ記」8:1-4)

律法は、ちょうどこのころ編集されていたのです。もちろん、神殿の復興と同じくらい、ユダヤの復興を象徴する大きな出来事であります。

 

紀元前433年、ネヘミヤはこの仕事をやり遂げて、ペルシャに戻ります。以前の通り王様に仕えました。しかしその後、ユダヤ人の信仰が乱れたため、再びエルサレムに戻り様々な改革を行ったわけです。

 どのようなことがあったかと言うと、色々ありますが、第一には祭司による1/10献金の私物化です。

ネヘミヤ『13:5 かつて人々が穀物の献げ物と香と祭具、またレビ人と詠唱者と門衛のための、規定による十分の一の穀物と新しいぶどう酒と油、更に祭司のための礼物を納めることになっていたその大きな祭司室をトビヤのために流用した。13:6 その時わたしはエルサレムにいなかった。バビロンの王アルタクセルクセスの第三十二年にわたしは王のもとに行っていたからである。やがて王の許しを得て、13:7 エルサレムに帰り、エルヤシブがトビヤのために神殿の庭にある収納庫を流用して、そのために行った悪事を知った。』


 エルヤシブと言う人は、祭司でした。1/10献金の管理をしていたのでしょう。祭司室に運ばれてきた1/10献金は、アンモン人の僕トビヤによって横流しをされていたのです。トビヤは、イスラエルの名門家の一つなのですが、アンモン人と組んでエルサレムの神殿再建をずーっと前から妨害していました。そのトビヤのために、神殿が長年建設できなかったのです。にもかかわらず、祭司エルヤシブはその神殿には入れないアンモン人のかわりに、トビヤに祭司室を使わせていたのです。つまり、神殿にささげられた1/10献金は、異教徒のために横流しされていたわけです。ですから、ネヘミヤには、改革をする必要がありました。

 ネヘミヤの改革は、1/10献金のことと、異邦人を神殿に入れないこと、そして、異邦人との結婚のことでした。今日は、1/10献金に絞ってお話したいと思います。

 

  マラキ『3:8 人は神を偽りうるか。あなたたちはわたしを偽っていながら/どのようにあなたを偽っていますか、と言う。それは、十分の一の献げ物と/献納物においてである。』

この箇所は、先ほど説明しました総督ネヘミヤの改革にかかわる記事です。祭司エルヤシブは、神殿に納められた1/10献金の横流しをしていました。その結果、納められた献金を、神様が定めたとおりにレビ人や詠唱者に渡さなかったのです。こうして、祭司が先頭に立って神様に嘘偽りの行為をしていたわけです。そして、それを見ていたエルサレムの民は、神様への献納物についてさえ、傷のないものを選ぶことをしなくなっています。模範を示すべき指導者が不正をしているわけですから、エルサレムの民がその指導者の姿に倣って、良い物を神様に納めることをしなくなったのです。こうして1/10を神様に、そして最善の物を神様に捧げる行為は、だんだん人の都合によって、優先されなくなります。マラキはそのことを指摘します。

マラキ『3:9 あなたたちは、甚だしく呪われる。あなたたちは民全体で、わたしを偽っている。』

 

 そこで、マラキは神様の言葉を伝えます。『わたしを試しなさい』とのご命令です。

マラキ3:10『 十分の一の献げ物をすべて倉に運び/わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと/万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために/天の窓を開き/祝福を限りなく注ぐであろう。』

 

 聖書の中で、神様を試してよいという言葉は、おそらくここにしか出てきません。神様ご自身が、「私を試しなさい」と言っているわけです。そして、「祝福を限りなく注ぐ」と約束しているのです。考えてみると、手に入れた物の1/10は、神様の物? そうではなくて。本当は、私たちの手に入れた物の全ては神様の物ですが、神様はその1/10を捧げるようにご命令されています。ですから、私たちは感謝してその1/10を神様におかえししたいです。

 

 ところで、どこから1/10という割合がでてきたのでしょうか? 実は、1/10の捧げものは、旧約の時代から、掟にありました。

レビ記を見ますと、主のものについてのモーセの戒めがあります。読みますから聞いてください。

レビ記『27:30 土地から取れる収穫量の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、主のものである。それは聖なるもので主に属す。

27:31 もし、十分の一の一部を買い戻したいときは、それに五分の一を加えて支払わなければならない。

27:32 牛や羊の群れの十分の一については、牧者の杖の下をくぐる十頭目のものはすべて、聖なるもので主に属する。

27:33 この十分の一の家畜を見て、その良し悪しを判断したり、それを他のものと取り替えたりしてはならない。もし、他のものと取り替えるならば、それも取り替えたものも聖なるものとなり、買い戻すことはできない。

27:34 以上は、主がシナイ山において、モーセを通してイスラエルの人々に示された戒めである。』

 

 十分の一を捧げることは、神様の業である教会。 その教会の運営の費用をまかなう大事な財源になります。また、それだけではなく、十分の一を捧げると言うことは、人の性であります「どん欲」を防ぐ盾になります。十分の一を忠実に神様にお返しする人は、主を忘れることがなく、そして神様に覚えられ、祝福されるのです。しかも、何をどのくらいお返しするかは一人一人の判断にゆだねられているのです。ある人は、奉仕する時間であり、ある人にとっては祈る時間、そして、手に入れた物なわけです。

 そこには、強制はありませんし、十分の一を捧げなかったがための不利益があるわけでもありません。また、仕方がなく捧げることでもないです。ですから、すべての判断は、私たち一人一人に委ねられているのです。 

ところで、キリスト教の他の教派の献金の説明文に、収入のどこの部分の十分の一を捧げるのかを事細かに書いたものを見たことがありますが、バプテストではあまりそういう話題にはなりません。バプテストの群れである私たちのルールはと言うと、「捧げものは自分で神様に祈って約束する」という運用になっています。それは、自分たち家族の生活を支える時間と費用を確保しながら、そして税金や社会保険料や学費などを払いながら、それぞれの信仰に従って捧げるという考え方です。

 

 神様は言います。「十分の一捧げものによって、わたしを試してみよと」。

そして、「必ず、わたしはあなたたちのために/天の窓を開き/祝福を限りなく注ぐであろう。」と祝福を約束されました。

 

 ここで、ぜひ覚えていただきたいことは、十分の一の捧げものをしたら、神様は祝福を限りなく注ぐと約束されているという事です。何の十分の一かは、自分で祈って決めて良いと思います。お金である必要もありません。頂いている賜物の一部を、進んで捧げられたことに対して、神様は必ず祝福してくださるのです。喜んで捧げる。そして、捧げることで、大胆に神様を試してみてください。そうすると、必ず祝福されます。