ローマ3:21-31

神の恵みにより無償で義とされる



1.律法と預言者

 律法とは、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記とモーセが書いたとされるモーセ5書の事です。(最初の律法だけは冠詞がなく、律法の概念を示す)歴史と、掟の書とも言え、戒めと命令が多くあります。掟は、基準を示します。つまり、掟に従うことを良しとしますが、掟を守れないことは罪であります。しかし、掟が守れないことは、人間にとってはどうしようもない事実です。

 預言者には二つの意味があります。預言つまり、神様の言葉を預かって、民に伝える人のことを預言者と言います。また、預言者が書いた預言書(イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書等)を預言者と呼びます。ここで使われている預言者は、後者の方です。聖書は、律法と預言者と詩篇などの詩歌で構成されていますから、その教えるところは律法と預言者にあると言えます。


2.信仰による義

 『3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。』 

 神の義は、律法と関係がない。そして律法と預言者によって神の義が立証されたとのパウロの主張は、何を言っているのでしょうか? 簡単に言うと、律法だけでは、神の義を立証できない。しかし、預言者を加えると立証可能なのだと言うことです。預言者での預言とは、救い主が生まれるとの預言。そして救い主がしいたげられ、死に、そして復活することです。

 この預言された救い主が、イエス・キリストであるとするならば、預言者はすでに成就していることになります。そして、イエス様を信じるのであれば、すべての人が救われます。そして、神の義が与えられるのです。私たちは、正しい者ではありませんが、神様の正しさを持っていると みなしてくださるのです。ですから、もう、裁かれることはあっても、自らの罪を贖う必要は無くなったのです。神様は、私たちがイエス様を信じることによって私たちを義とされ、罪を赦されたからです。

『3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。』

 人が罪をおかすことは、事実であります。だれも、神様のように正しくはなれないからです。従って、神様の栄光の中にいることは出来ません。しかし、イエス様が十字架でその罪を贖ってくださいました。そのための代価は要求されません。ですから、私たち自身の罪の贖いは必要ないのです。その結果、私たちの罪は無償で赦されました。その代価を払ったのは、神様であり、イエス様です。

『3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。3:26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。』

 最初に神様は、私たちを義とすることを願いました。そのために、罪の贖いを用意します。私たちは、このままでは罪から逃れられないから、永遠に義とされようがないからです。もし、このために何もしなければ、この神様は正しいのか?と疑問を持つでしょう。やはり、神様ご自身も私たちを義とするためにどうすればよいか真剣に考えておられるのです。そして、その犠牲となるために独り子イエス・キリストをこの世に降しました。キリストの十字架の血によって、私たちの罪を贖うためです。そして、私たちの罪を見逃しました。私たちはその罪を贖う必要は無くなった。つまり、その時から私たちには神様の計画とイエス様の犠牲によって、義とされる道筋ができたのです。そして、イエス様を信じる者は義とされました。罪がなくなったわけでもないのに、無償でです。

『3:27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。3:28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。』

 では、神様に受け入れられるために何かをした と 自慢できますか? いいえ、なにもありません。私たちの罪が赦されたのは、律法に従うことに基づいていないからです。それは信仰に基づいています。なぜなら、「人が義とされるのは、律法通りの行いによるのではなくて、信仰による」と考えるからです。律法の行いは、モーセ以来守られてきませんでした。それは、律法では人を義とすることが出来ない証拠であります。ですから、神様は人を義とするために新しい道筋を造ったのです。パウロは、それをイエス様を信じる信仰であると言いきっています。


『3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。3:30 実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。3:31 それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。』


 神様は、誰にでも平等です。ユダヤ人だから赦すと言うことはありません。だから、ユダヤ人のしるしである割礼の有無は、特に意味をなさなくなります。だからと言って、律法をおろそかにすることはふさわしくありません。パウロはむしろ、イエス様への信仰は律法を完成させると言います。イエス様の言葉です。

ガラ『5:14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。』