士師6:36-40

しるしは示された

2021年 8 8日 主日礼拝

しるしは示された

 聖書 士師記6:36-40

ギデオンと言うと、キリスト教の超教派の聖書を贈呈する団体 ギデオン協会を思い出すと思います。聖書普及のための活動団体で聖書を無償で配っています。英語の勉強のために和英併記のギデオン聖書を使った人がいると思います。しかしギデオンはどんな人なのか、聖書の中では士師記の6、7章にしか登場しないので、あまり知れ渡っていないのかもしれません。

 

旧約聖書には、神様が代々の指導者に働きかけられた御業が記録されていますが、その一人がギデオンです。士師の時代と言うのはヨシュアによってイスラエルが導かれ、カナンの地に移住した後、士師と呼ばれるリーダを立てていました。まだ、イスラエルの民族が国王を立てていないころのことで、だいたい聖書を頼りにその年代を推定すると、紀元前1170年ころとなります。士師の役割は、民全体を指導する政治家であり、そして民を裁く裁判官の権限があったようです。(英語では士師記のことをjudgeと呼びますから、裁判官に近いと思われます)

 

ギデオンの前の士師は、デボラという名の女性で、「国は四十年にわたって平穏であった」(士師記第 5 章 31 節)と聖書に書かれています。しかし、この平穏は永遠に続きませんでした。40 年間の平穏な時代の後、イスラエルはミディアン人の激しい抑圧に耐えることとなりました。ミディアン人はイスラエルの人々の土地を滅ぼして、士師記『6:4命の糧となるものは羊も牛もろばも、何も残さなかった』ほどでした。しかし、これらの災いは偶然に起きたのではありません。

士師記『6:1イスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行った。主は彼らを七年間、ミディアン人の手に渡された。』

 イスラエルの民族がしたこととは、偶像礼拝であり、神様を捨てたことだと

言えます。(士師記第 2 章 11~15節、10 章 6 節、13 章 1 節等)また、このほかの主の目に悪とされることを行ったときは、必ずその者に対して災いがあったことも聖書に書かれています。

 そして、イスラエルの叫びに対して、神様は預言者に語らせます。神様は、これまでのイスラエルの民の言動を非難しました。その例がこの記事です。

士師記『6:7~10イスラエルは、ミディアン人のために甚だしく衰えたので、イスラエルの人々は主に助けを求めて叫んだ。イスラエルの人々がミディアン人のことで主に助けを求めて叫ぶと、主は一人の預言者をイスラエルの人々に遣

わされた。預言者は語った。「イスラエルの神、主はこう言われる。わたしはエジプトからあなたたちを導き上り、奴隷の家から導き出した。わたしはあなたたちをエジプトの手からだけでなく、あらゆる抑圧者の手から救い出し、あなたたちの赴く前に彼らを追い払って、その地をあなたたちに与えた。わたしがあなたたちの神、主であり、あなたたちはアモリ人の国に住んでいても、アモリ人の神を畏れ敬ってはならない、とわたしは告げておいた。だがあなたたちは、わたしの声に聞き従わなかった。』

 

それでも神様は、イスラエルの民のために士師ギデオンを遣わしました。そのとき、イスラエルの敵である「ミディアン人、アマレク人、東方の諸民族」の全てが一箇所に集まって、イスラエルを襲う準備をしていたからです。この時神様は、ギデオンを促して、全イスラエルをギデオンの元に集めました。神様は自ら進んでギデオンに働きかけました。神様は、この戦いを計画されていたからです。そのときまでのギデオンは、アマレク人を恐れている一人の農民にすぎませんでした。しかし、神様がギデオンを立て、そしてギデオンの働きを助けたので、神様が諸国の民に打ち勝とうとする計画は実現したのです。

 

さて、今日の聖書の箇所は、ギデオンと羊の毛の物語です。(士師記6:36-40)

イスラエルがカナンの地に定着したのは、ヨシュアの時代ですが、実はそのカナンの地を征服して他国の人を追い出したわけではありません。多くの、昔からいる住民と混在したまま住み続けていたのです。また、武器や農具の入手について、ペリシテ人に頼っていましたから、イスラエル民族の独立した国という形ではありませんでした。そして、多くの民族との争いがありました。メソポタミア人、カナン人(ヤビン)、モアブ人、モアブ人の兄弟民族であるアンモン人、東方の遊牧民ミディアン人、そしてイサクの子エソウの子孫のアマレク人などです。ギデオンのころ、東側から攻めたミディアン人は、ペリシテの町ガザつまりこのカナン地区の最西端まで侵攻してきていました。ほぼ、征服されるところだったのです。そのミディアン民族の侵攻に対して、ギデオンは立ち向かおうとしていたのです。ミディアン人は、ほかの民族と一緒になって攻めてきました。たぶんイスラエル【3万2千人(士師7:4)】以上の大軍です。残念ながら、聖書にはどれほどの敵側の兵隊がいたのかまでは書いていません。

ギデオンは、その集められた兵隊を率いますが、戦いに出る前に神様にしるしを求めました。

士師記『6:36ギデオンは神にこう言った。「もしお告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっているなら、6:37羊一匹分の毛を麦打ち

場に置きますから、その羊の毛にだけ露を置き、土は全く乾いているようにしてください。』

 ギデオンは、神様がイスラエルを救おうとしていることを疑ったのでしょうか? そして、神様にその力があるならば、そのしるしを見せてほしいと思ったのでしょうか?もし、そうであるならば、ギデオンは神様を疑い、そして神様の示される「しるし」を見たうえで、判断したかったのだと言えるでしょう。  

一方で、あまりにも突然に神様から召され、そして重大な任務を負う事に対して、畏れを感じていたとの説明もあります。この場合、しるしを見せてもらって神様の本気度を試すと言うような意味ではないと思います。神様の強い意思をみせてもらって、励みにしたいという意味合いで、神様のしるしを求めたのだと言えるでしょう。

また、こんな説を言う人もいます。ギデオンが、しるしを求めたのは、ギデオン自身の為ではなく、ギデオンに従うイスラエルの兵士に見てもらう為だったと言うのです。そのしるしを見る事で、イスラエルの民全員が神様のご命令である事、そして必ず成就するという確信を持たせたい。そのようにギデオンは考えて、神様にしるしを求めたと説明する人もいます。

 皆さんは、どう思われるでしょうか?どの説明がしっくりいきますか? わたしはというと、この三つの説明とも的を射ていると思うのです。そもそも、この時のギデオンは勇者ではありません。むしろ、ミディアン人に略奪されないように酒樽の中に隠れて、麦の脱穀をしていたくらいです。そもそも、何の実績もないギデオンに自信があるわけがありません。また、与えられた使命の重大さもあって、ここに集まった3万2千人(士師7:4)をギデオンが指揮してミディアン人を追い払うのは、たいへん重荷な事でもあります。ですから、神様を信じているとしても、どこかで、目に見える心の支えが欲しかったのです。そして、それは、これから引き連れていく兵隊にも必要なことです。兵隊たちもギデオンと同じように、神様が助けてくれるとの確信が欲しかったはずです。決して神様を疑ったわけではありませんが、とても難しい働きをすることに対する恐れが簡単になくなりはしないのです。彼らは神様を信じて、信頼したから、神様の業のために召され従う事には賛成でした。しかし、現実としてそこには切実な恐れがありました。

ギデオンは羊の毛のしるしを通して、神のみこころであるかどうかを読み取ろうとしたのではないと思われます。つまり、神様を試したのではありません。むしろギデオンは、羊の毛にしるしが現れる事を求めることによって、神様がその業を示され、イスラエルの民を鼓舞したかったのだと思われます。そのしるしを求めた箇所であります 士師記第6:36-37を、原語のニュアンスをいかして訳してみました。実際、ギデオンはこのように言ったのです。

「神様のお告げのように、わたしを使ってイスラエルを救われるなら、羊一匹分の毛を麦打ち場に置きますから、その羊の毛にだけ露を置き、土は全く乾いているようにしてください。そうすれば、私は神様のお告げのように用いられ、イスラエルを救うことを知るでしょう。」

ギデオンは「本当に私の手を用いて、その業をなさるのですね」と神様のお告げに応答し、ギデオンがその役割を担えるのかを尋ねたのだと言えます。

 

ギデオンは、神様のみこころを知って、この様に応答しました。そして、神様はそのしるしをお示しになりました。置かれた羊の毛が水でぬれているのに、土はまったく乾いていたのです。これで、ギデオンは決心したのだと思います。 ところが、ギデオンは、再び神様にお願いをします。

士師『6:39b「どうかお怒りにならず、もう一度言わせてください。もう一度だけ羊の毛で試すのを許し、羊の毛だけが乾いていて、土には一面露が置かれているようにしてください。」』

このように、最初に神様に願ったことと、真反対のことをギデオンは神様にお願いしたのです。ギデオンは、まだ満足していないのでしょうか?。それとも、 ギデオンが再びしるしを求めたのは、「羊の毛だけ露で濡らすのは簡単だから、だれかが羊の毛に水を吹きかけたのでは?」と 疑ったからなのでしょうか? 

 

 

少し、ギデオンから離れてイエス様のお話をしたいと思います。イエス様は、信仰のない人に「しるし」を示すことを拒んだ記事を読んだことがあると思います。例えば、この箇所です。

マルコ『8:11 ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。8:12 イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」8:13 そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。』

(平行記事 マタイ16:1-4、ルカ11:16)

聖書には、沢山のしるしが書かれています。区別するためのマークという意味でのしるし、それから契約の証拠としてのしるし、そして神様の引き起こす奇跡、そして預言者が示す奇跡などです。今日の聖書で、ギデオンが願ったことは神様の奇跡のことですし、イエス様の言われるしるしもイエス様の執り成しで神様が引き起こす奇跡のことを指しています。マルコ福音書8:11によると、イエス様はファリサイ派の人々がイエス様を試そうとしに来た時、彼らから天からのしるしを求められました。しかし、イエス様はしるしをお示しになりません。そのファリサイ派の人々は、イエス様を信じていなかったからです。そして、イエス様を試すために天からのしるしを求めたからでした。しるしは、信仰のないところには示されることがないのです。また、しるしを示された所に居合わせたとしても、信仰のない者にはそのしるしに気が付くことはありません。ですから、信仰のない者に対してしるしを示すことはイエス様でもできないのです。イエス様の示されたしるしは、イエス様を信じて集まって来る人々の信仰があってこそ、もたらされたのです。ですから、しるしを見て信じたのではありません。イエス様を信じたからこそ、しるしが与えられたのです。

 

さて、ギデオンに戻ります。ギデオンは神様を信じ、神様の告げられたことを成し遂げようと望んでいます。そして、ギデオンは自分の神様への信仰がその役割に十分に耐えられるのかを神様に聞いて、そしてまたイスラエルの民にもその場に立ち会ってもらったのだと考えて良いでしょう。決して、神様の御心を尋ねたわけでもなく、神様を信じるべきかどうかを占ったわけではないという事が、ご理解いただけたかと思います。

たしかに、土が濡れている中、その土の上の羊の毛だけが乾いていること等は、自然現象で起こるものではありません。しかし、それが奇跡的に実現したからと言って、それを見た者が神様を信じるとは限らないのです。ところが、神様を信じる者にとっては、その不思議な業が実現する時とは、神様と信仰でつながっていると実感する時なのです。私たちが神のみこころに従おうとしていることを、神様がお認めになった。神様はギデオンの信仰とイスラエルのために立ち上がる決断を「よし」とされたのです。そして、自身とイスラエルの民の力が足りないところを神様は補って導いて下さるとの確信を得ます。このようにして、ギデオンの信仰は、しるしを求めることを通して、より強められていったのです。

 

私たちは、ギデオンの様に神様のお告げを理解して、そして国家的な困難と知りながら、信じて神様についていく。そういう場面に出くわす事はないと思います。それでも、神様の導きに従って行くことを望んでいます。私たちには、神様に従って行くための十分な信仰はありませんが、それを神様に祈って求めることはできます。

どうか、神様が私たちを御用のために用いてくださるよう。そして、私たちが神様のお役に立てる時が来てもその重荷を負えるように、神様の御業を信じ、神様に祈ってまいりましょう。そうするならば、神様はしるしを下さいます。ですから、ギデオンのしたように、神様により頼んでしるしを求め、神様によって私たちの信仰の確信を強めていただきましょう。