コロサイ3:5-17

新しい服を着て

  偶像礼拝:偶像礼拝とは、目に見える物・像などを礼拝する行為。言い換えれば、「目に見えない神様」ではない存在を礼拝している事。つまり、人間の手によって作られた形ある物に精神的に頼ったり、礼拝したりすれば、偶像礼拝となります。(ですから、仏像や聖書物語の絵画を教育的な意味で礼拝するスペースに置いているだけで、偶像礼拝と呼ぶのはふさわしくありません。他の宗教が目に見えないもの(神仏など)を礼拝しているときに、ある意味侮辱的な言葉となるからです。そういった見方をするならば、キリスト教の十字架やイコンも偶像礼拝の対象だと言われても仕方がありません。) なぜ、偶像礼拝が悪いかと言えば、神様との関係よりも、神様以外の「目に見えるもの」に心を奪われているからです。

未開人:蔑称。野蛮人と同様に、文明や文化の程度が低い人々という文字通りの意味には使われることが少ないと思われます。古代ギリシア人に言わせれば、ギリシア人以外は、野蛮人です。未開人とか野蛮人と呼ばれる人々よりも、この言葉を自尊心をくすぐるために使う人々の方が民度が低いと言えます。

 スキタイ:スキタイ( 希: Σκύθαι)は、紀元前8世紀~紀元前3世紀にかけて、ウクライナを中心に活動していたイラン系遊牧騎馬民族および遊牧国家。スキュタイ、スキュティア人、スキティア人ともいい、その地をスキュティア、スキティアと呼びます。「スキタイ」は古代ギリシア人によってこの地域の諸部族をまとめて指す際に使われた呼称でもあり、スキタイが滅んだ後も遊牧騎馬民族の代名詞として「スキタイ」の名は使われ続けました。

1.貪欲は偶像礼拝

 「みだらな行い(淫行)、不潔な行い(不道徳)、情欲、悪い欲望、および貪欲」について、パウロは「捨てるように」と教えます。パウロは「地上的なもの」と呼んでいますから、天の国には無くて、生きている人間とは親和性が高いという事です。これらは、すべてが偶像礼拝に他ならないとパウロは指摘します。神様を知った今、これらの誘惑を捨て、神様に従うべきだと言うわけです。神様に従うのであれば、これらの誘惑と一緒の生活から脱出しなければ、神様の怒りを買います。これからは「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉」を捨てなさい。そして、お互いに嘘をつくのをやめなさい。この命令を聞いた人は、たぶん困ったことでしょう。だれでも、その命令のようにしたいのです。しかし、それが出来ないのが人間の性(さが)であります。そしてその命令をしたパウロ自身も、自ら範とならなければなりません。どちらの立場でも、この命令を守るのは厳しいものです。

 パウロは、ここで提案をします。

「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、3:10 造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」

 信仰を持つ前の古い自分を、神様に倣う新しい姿に変えるために、自身が着ている「人格」と言う衣服を脱ぎ捨てて、新しい「人格」を身につける。そうすれば、日々行いは新たにされます。古い自分が行ったこととは違った、行いが出来始めるのです。まるで着ぐるみを着替えるようなイメージでパウロは、着ている服が人を育てるとを教えます。その着ぐるみの服は、イエス様の行いに倣って行動するように仕向けますので、着ぐるみの中身は同じでも、その着ている服で違いが出来、そしてやがて中身も着ている服と似てくるのです。

 『3:11 そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。』

 ギリシア人から見ると ギリシャ人>ユダヤ人、スキタイ人、未開人

            自由人>奴隷

 ユダヤ人から見ると  ユダヤ人、改宗者(割礼を受けている)>主を畏れる者>異邦人

            自由人>奴隷 

 パウロは、(>)がない世界になると言います。なぜなら、私とイエス様、イエス様とギリシャ人という関係性の中では、私とギリシャ人は同格だからです。同じようにイエス様と関わり合い、そしてイエス様の教えの影響を同じように受けるわけです。そこには、レベルの差つまり、イエス様にどれだけ愛されるかを考えたときに、皆同じなのです。愛され方は違っても愛される程度に違いはありません。同様に、人種の違いや住んでいる場所の違い、自由人か奴隷かの違い、ましてや割礼を受けたかどうかについては、なんらイエス様との関係においては意味をなさないのです。

2.イエスの名によって 

 神様から愛されているのだから、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。3:13 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。」

 これはなかなか約束できないことでもあります。自分が出来もしないことを神様に約束するという事は、正直な人たちにとっては、神様を裏切る結果を招くと思い心苦しいばかりです。しかし、私たちの罪を赦してくださった神様のことを思えば、神様に見倣って、私たちも人を赦さなければなりません。もちろん、神様に対して罪深い私たちが赦されているのですから、私たちが互いに罪を犯している事について、赦せないというのではあまりにも自己中心的です。しかし、やはり難しいのです。自分を愛する以上に隣人を愛することが、そこに必要だからです。私たちは、やはり、自分を愛し、自分に甘くし、そして自分中心の考えで生きています。パウロは、そこに着目しています。すべての憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容は、自分自身を愛する故にはできない業なのです。パウロは、「愛は、すべてを完成させるきずな」と言いました。すべてを、「イエス様の名によって行う」「イエス様の名によって感謝する」そうすれば、イエス様の恵みによって、導かれるのです。