マルコ4:26-34

成長する神の国

2022年 65日 主日礼拝

成長する神の国

聖書 マルコによる福音書4:24-34

 今日は、ペンテコステです。ペンテコステは、ギリシャ語の50番目の意味から来ています。過ぎ越しの祭りの50日後に、それはイエス様が昇天して10日後でした、弟子たちに聖霊が降り注ぎました。私たちは、その記念として聖霊降臨日と呼んでいます。この日から、聖霊はイエス様の代わりに私たちとともにあって、直接私たちを導くために働かれ始めたのです。

 さて、今日の聖書の箇所の少し前に、週報の今週の聖句に選びました箇所があります。リビングバイブルが、良く訳されていましたので、そこからとりました。 マルコ『4:20 良い地とは、神様の教えをまちがいなく受け入れ、神様のために、三十倍、六十倍、百倍もの収穫をあげる人の心を表しています」』

(新共同訳では「良い土地に蒔かれたもの」が主語となっており、原語の主語である「良い土地」の功績が「種」の功績に差し替えられています。)

 今年の2月20日に 「神の言葉を聞く」と題して ルカによる福音書8:4-15から、「種を蒔く人」のたとえ話のお話をしました。今日の箇所はマルコですが、イエス様が譬えで伝えようとしていることは、マルコもルカも共通のことです。

 ですから、短くおさらいをしたいと思います。

「種をまく」とは、神の国では伝道することを指します。そして蒔く種は、神の国ではイエス様の教え(福音)のことです。そして土地は、神の国では私たちの心を指します。一方で、この世では、人は、穀物や野菜などの収穫を目的に土地を耕し、そして種を蒔きます。そのあとは、肥料をやったり、水をやったり、雑草を抜いたりと世話をするのが普通ですが、ガリラヤ地方では、そういうわけではありません。ガリラヤ周辺は、肥沃であるだけではなくて、農業を営むためのあらゆる条件が整っているために、何もしなくても穀物などは育つのです。そういうわけで、種が芽を出し、そして成長していくこと自身は、その土地や風土の働きそのものであります。決して、種をまいた農民の働きによるものではないのです。ですから、穀物の種を蒔いた人は、

『夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。』のです。

 そして、良い土地はひとりでに実を結ばせます。「土地が悪くても種の生命力で実が成る」のではなく、「土地が種に実を結ばせる」わけです。ガリラヤの肥沃な土地・風土であるからこそ、他の土地以上に豊かな実りを得ることができるのです。

 

 イエス様は、伝道の事をこの「種まき」に譬えられています。伝道者は、福音を宣べ伝えます。それは、種蒔きであります。種は、蒔かれるとやがて芽を出します。蒔かれた福音の種は、その福音を聞いた人一人ひとりの心の中にあって、芽を出してくるわけです。こうして信仰の芽が出るかどうかは、一人一人が福音をどのように受け止めたかによります。そして、福音を聞いた人の中に何が起こっているかは、福音を語った人には何もわかりません。宣教や証しのどの文言がその人に心に刺さったのかもわからなければ、受け入れを拒否している事もわかりません。つまり、伝道者は福音を宣べたあとは、その福音に大部分を任せることになるのです。福音を聞いた人に残るのは、その教えと、その人の心の関係だけになるのです。そして、もし福音を聞き入れてくれた場合、種から芽が出て、芽が茎となり、穂となり、実をつけるわけです。

 福音は、だれにでも分け隔てなく届けられます。ですから、福音が何十倍にも実るかどうかは、福音を聞く人の心にしかよらないのです。良い心を持っているならば、福音はその人の中で何十倍もの実をつけるわけです。

ですから、良い土地とは、『神様の教えをまちがいなく受け入れ、神様のために、三十倍、六十倍、百倍もの収穫をあげる』人のことです。

 また、イエス様は良くこのように言いました『4:23聞く耳を持つものは聞きなさい』。これは、耳で聞くことだけではなくて、イエス様の教えを受け入れる。そして教えに沿って行動することを含んだ御命令です。イエス様の教えを実践したならば、収穫も大きくなりますが、それは、伝道のために福音を届けた人の手柄ではありません。イエス様の教えを受け入れた人、その人自身の手柄なのです。ですから、伝道が順調であっても、困難であっても一喜一憂することではないのです。私たちのすべきことは、求めている人に福音を届ける事であります。そして、その蒔いた福音が芽を出すかどうかは、それぞれ福音を聞いた人の心によって決まってきます。すべての成長は、イエス様と福音を聞いた本人の関係で起こされる事です。だから、私たちは心配をしても、しなくても、イエス様は必要な導きを備えてくださいます。

 

 さらに、イエス様は「神の国はからし種」のようだと説明します。からし種の標本を私は見たことがありますが、粉のようですね。からしの種が、「決して世界最小の種」と言うわけではありませんが、小さいのは確かです。そして、このからしは、木ではなくて、「黒がらし」と呼ばれる一年草だと、「聖書の植物」と言う本には書かれています。草と言うよりは葉野菜なのですが、1m以上に育ち、ガリラヤ地方では3mにも育ちます。ガリラヤでは多くの小鳥がこの種を食べに集まってくるそうです。また、黒がらしの枝は人の腕位の太さになると言う事ですから、その種がこれほど育つので、「神の国のようだ」とイエス様は言っておられるのです。

 つまり、神の国というのは、小さく始まって、やがて成長して大きなものになるという譬えです。ですから、「神の国というのは、天国の事なので、天国ならば大きいはずだ」という単純なことではなさそうです。最初は目で見るのが大変なほど小さいのです。イエス様の復活後に生まれた教会もそうでした。小さい群れでしかなかった、まだユダヤ教の一つのグループでしかなかったイエス様の教会です。しかし、たとえそのような教会でありましても、やがてたくさんの教会を生み出すような大きな群れになって行ったのです。イエス様は、このことを教えておられたのです。

 

 そして、大きな教会でも多くの教会は、少ない信徒から始まっています。それでも、一粒の種が良い土地に落ちますと、毎年、その収穫を増やしていきます。そして、それは多くの小鳥が宿るほどの成長を見せるのです。ですから、たとえ今はからし種のような小さな教会でありましても、神様の天国の御計画には、やがて大きな木に成長するという約束されているのです。

 

 ここで、福音書記者のマルコは、この物語に割り込んだ形で、譬えを使って教える理由を説明します。

それぞれ集まった人々の 「聞く力に応じて」、譬えを使われたと言う事です。と言う事は、イエス様から直接聞いている人々にあわせた譬えで、「解りやすく」教えていたと考えた方がよいでしょう。その関係で、弟子たちにはわからなかった譬えが多かったと思われます。そうでなければ、イエス様はすべてを説明する必要はないからです。つまり、イエス様の弟子たちすらわからないような、集まった人々だからこそわかる譬えを話されたのだと思われます。そういう意味で、イエス様の譬え話を読むときには、その当時の生活ぶりや文化を知っていた方が理解を助けるはずです。今日の箇所でも、「土地が種を成長させる」のか「種が自力で成長する」のかは、明らかに原文からいうと「土地が種を成長させる」なのです。それなのに、ガリラヤの土地が何もしなくても種を蒔けば作物が育つ土地であることを知らなければ、「種を成長させるのは太陽の光であり、水であり、農夫だ!」と、ガリラヤの常識とは違った理解を持ち込んでしまいます。そういう意味で、時代も地域も異なるなかで、譬えを読み解くことは、難しいのだと言えます。

 ところで、「イエス様が譬えの意味をすべて弟子たちに教えていた」との記事ですが、マルコがあえて書き足したものと考えることができます。と言うのは、別の意図がありそうだからです。つまり、イエス様の譬えの意味は、弟子たちに聞けば教えてくれると言う事を言いたかったのかもしれません。当然ながら、イエス様の弟子たちが譬えの意味を知っていたならば、その理解はそのまま伝統的な解釈になっているという事です。そうであるとしたならば、私たちは、自分で譬えを解釈する前に、伝統的な解釈を聞かなければならなりません。とは言いながら、多少の疑問もあります。もし弟子たちが譬えの意味を知っていたのならば、マルコを始めとした福音書記者はそれを伝え聞いていて、そのほぼ全てを書いただろうと思われるからです。しかし、基本的には、イエス様の譬えの解き明かしは、聖書にはほとんど書かれていないのです。ですから、イエス様の譬えは私たちにとって「わかりにくい」ことが多いのです。それでも、いつかイエス様の譬えが、私たちの心に落ちてくる時が来ると期待したいと思います。イエス様の譬えは、自分自身の体験でも、兄弟姉妹の「証」でも、また学びの中でも、思いもかけずに解るようなヒントが含まれているのです。

 イエス様は、譬えを使って「神の国では、人々の良い心によって実りが何十倍にもなる」、また「神の国は、見えないくらい小さいものから始まって、全世界に広がる」ことを教えられました。神の国は今も成長しているのです。その成長は、福音の種を蒔くことと、良い土地が得られているからこそ、もたらされています。

 わたしたちの教会も、今は小さいですが、良い土地をそろえています。良い土地とは、教会に集まる人々の心、それが良い土地そのものであります。そして、良い土地は何十倍にも実りを増やします。そうして、毎年実りを増やすことによって、やがて大きな福音伝道となっていくことが、私たちの希望でありますし、イエス様はそのようになることを望まれています。しかし、忘れてはいけません。私たちは、イエス様の教えに従って、福音の種を蒔くのですが、それを育てるのはイエス様ご自身であり、そしてイエス様の言葉を聞こうとする人々の心なのです。わたしたちは、その蒔かれた福音が育って実りが得られるまで、何が起こっているのかすらもわかりませんし、手出しをすることもできないのです。私たちは、福音伝道をしますが、その働きは人々の心を支配することではないのです。そもそも、人々の心を支配することなどは、出来ようもありませんから、すべてをイエス様に委ねるしかないのです。イエス様にゆだねて祈ったならば、人々の心の上に聖霊が働いて下さいます。そして、多くの人々が信仰に導かれるのです。

 私たちが願う伝道の最大の成果は、「魂の救いを求めている人が救われる」ことです。今、目の前でかかわっている人一人ひとりが、救われるように祈る事。そのとりなしの祈りをイエス様は聞いてくださいます。そして、聖霊を降されます。こうして、私たちの祈りによって、聖霊が人々の心を導いてくださいます。特に、イエス様に祈ってお願いしたいことは、身近な人が救われることです。そのことを夢見て、喜んで伝道の種を蒔いてまいりましょう。