1.裏切られる
ユダは、人目につかずにイエス様を捕らえるために、手引きをしました。少なくとも、祭司長たち、律法学者たち、そしてその長老たちを説得するだけの準備をして、皆を引き連れてきたものと思われます。ですから、ユダが裏切ったのは、思いつきではなかったことが分かります。また、挨拶をする際に口づけをすることは普通であったものの、イエス様を先生と呼び、親しみを込めた口づけをすることで、ユダはイエス様を裏切ると同時にあざけったのです。ユダの背後には、イエス様を捕らえるために来た、神殿の衛兵をはじめとした大人数がいたのです。つまり、イエス様を捕まえよ と合図さえすれば、イエス様は捕まるしかなかったのです。
『14:47 居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。』
すでに、イエス様がとらわれた後に、剣を抜いたところで、大勢は決まっていました。「そのとき、そばに立っていた一人が、剣を抜いて大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。」とありますが、抵抗もそこまでで、弟子たちはどうしようもなかったようです。
『14:50 弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。』
結局、弟子たちはイエス様と供に捕まることを選ばずに、逃げました。
2.一人の若者 逃げる
『14:51 一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、14:52 亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。』
マルコが、なぜこの記述を加えたのか、色々な説がありますが、マルコ自身がその場から逃げたことを証ししたのではないかと思われます。聖書には、マルコと呼ばれるヨハネが登場しますが、そのマルコこすがこの福音書の著者だとも言われています。
3.裁判を受ける
『14:53 人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た。14:54 ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。』
本来、裁判を受けるならば、最高法院で行うべきです。しかし、前の大祭司アンナスの屋敷に祭司長、長老、律法学者たちが集まります。また、最高法院は夜には開かれませんでした。そもそも、過ぎ越しの祭りのために小羊を屠る日から、実質的に過ぎ越しの祭りです。イエス様が捕まったのは、木曜の夜です。日が落ちているので、すでにユダヤでは金曜日ですから、裁判は開けません。もう、過ぎ越しの準備に入ってしまっているからです。本来ならば、次の次の日曜日の朝を待って、最高法院で裁判をし、その後死刑の求刑であって、ローマの裁判になります。それを全部端折って、金曜の朝にローマの裁判に持っていくことで、過ぎ越しの前に終わらせようとの考えだったのだと思われます。
大祭司は、偽証人たちが死刑を宣告するに値するような証言をしないことにいら立っていました。そこで彼はイエスに直接尋ねます。
『お前はほむべき方の子、メシアなのか』
「ほむべき方」とは、神様の名を口にすることなく神様を指す、ユダヤ人が用いる言葉です。つまり、「おまえは神の子、メシヤ(キリスト)なのか」と尋ねたのです。イエスは様は、質問に率直に答えました。
『14:62 イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る。」』
「そうです」は、英語で示せば、I amです。大祭司が非常に怒ったことから考えると、「イエス様が、神様の呼び名「わたしはある」という言葉を自分に使った」 と理解したと思われます。そもそも、「ヤハウェ」や「わたしはある」という神様の名を呼んではいけないので、「ほむべき方」と呼んでいるわけですから・・・。神様の名について、このような理解をする根拠は、出エジプトで神様がモーセに示したときの言葉にあります。
出『3:14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」』
メシヤ、キリストであると主張することは、ユダヤの法律で死刑にできる罪ではありません。しかし、神様を冒涜することとなり、宗教的には死に値する罪でした。(レビ記24:16)