1.あなたは、どなたですか
「あなたは、どなたですか」との質問は、ユダヤ人たちの中にこのバプテスマのヨハネがメシアではないか?という期待があったからです。
ルカ『3:15 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。』 とあります。
当時、相当のメシア待望がありました。旧約最後の預言者マラキがメシアを預言してから、既に 400 年ぐらい経っています。4は人を指す数字です。また、苦難も4で表されます。そういう意味で、そろそろメシアが現れるのではないか・・・との期待があったのだと思われます。
マラキ『3:22 わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため/ホレブで掟と定めを命じておいた。3:23 見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。3:24 彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。』
人々は、モーセのような偉大な預言者が現れ、イスラエルを救い出してくれると期待しました。そして、その方が救世主、メシアであることを期待しています。その期待は、イスラエルを救うだけでなく、ローマの支配を終わらせ、神の国と言う名の「ユダヤの自治国家」だったのです。
そう言う時期にバプテスマのヨハネが活動を始めました。ユダヤの荒野(マタイ3:1)で神様のことばを語り始めました。そして、悔い改める者たちには水でバプテスマを授けました。このヨハネの活動は知れ渡ったので、かなり遠くからも、人々がやってきていたのです。
『1:19~エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させた』とあります。エルサレムには、最高法院(サンヘドリン)と呼ばれるユダヤの議会がありました。議員は、祭司、ファリサイ派、律法学者などからなる宗教指導者の集まりです。彼らは、ユダヤ教の救い主を名乗る者には、審問をしました。今、ヨハネが聞かれているのは、まさにその審問です。ヨハネははっきりと『「わたしはメシアではない」、(エリヤか?)「違う」、(預言者か?)「そうではない」』と答え、預言者イザヤ(40:3 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。)の言葉を用います。
『わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」』
キリストでなければ、エリヤではないのか?と立て続けに聞いたのですが、ヨハネは否定します。預言者でもないというと、バプテスマのヨハネは何者なのでしょうか?さきほどのマラキ書によると明らかにメシアの前にエリヤが現れるとされています。そして、イザヤの預言によれば、道をまっすぐにしに預言者が来ると解釈されています。そういう意味で、バプテスマのヨハネがエリヤである考えるのも、自然のことだと思われます。
2.バプテスマ
この記事の出来事があったのは、ヨルダン川の向こう側のベタニアです。ヨハネはそこでバプテスマを授けていたのです。このヨルダン川の向こう側のベタニアは、良く知られているベタニアとは別の場所です。
『1:24 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。1:25 彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼(バプテスマ)を授けるのですか」と言うと、』
エルサレムから審問のために派遣されている人々は、バプテスマのヨハネのゼロ回答では、引き下がりませんでした。祭司やレビ人の質問ではありませんから、祭司と、レビ人はヨハネの回答で十分だった。しかし、ファリサイ派の人は、まだ、食いつきます。それは、ファリサイ派の人々は、ローマからユダヤを開放するメシアを待望していたからでしょう。「メシアでもエリヤでもなく、イザヤの預言した預言者ではない」というヨハネは、祭司でもありません。つまり、「それではバプテスマを授ける資格がないではないか?」という疑問なわけです。
『1:26 ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼(バプテスマ)を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。1:27 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」』
これは、質問にまっすぐな答えではありません。しかし、次に箇所のイエス様のバプテスマとつながっています。ヨハネは、ある方がバプテスマを受けに来ることを知っていたのです。つまり、すでに救い主が世に来ていることを知っていました。そのことをファリサイ派の人に答えたのでした。そして、そのバプテスマを受けに来るイエスさまこそがメシアであると、すぐ次の場面でヨハネは告白するのです。また、イエス様のバプテスマについて、ほかの福音書ではヨハネの水に対比して書かれています。マタイでは、聖霊と火(3:11)マルコでは、聖霊(1:8)ルカでは、聖霊と火(3:16)です。ヨハネのバプテスマは、当時の清めの儀式の流れでできた、エッセネ派の儀式でした。清めのバプテスマと、入会したのちに受ける特別なバプテスマが存在したようです。そのバプテスマとは次元の違うバプテスマ。聖霊によるバプテスマをイエス様がもたらすこと。それが、この福音書を書いたヨハネの証しなのです。