シモン(ペトロ)とアンデレ、そしてゼベダイの息子ヤコブとヨハネをガリラヤ湖で弟子にしたイエス様が、再びガリラヤ湖のほとりにやってきました。そしてそこにはアルファイの子レビ(マタイ)がいました。レビは、通行税を取る徴税人でした。(平行記事 マタイ9:9-13 ルカ5:27-32)
1.徴税人とは
徴税人(ちょうぜいにん) ローマ政府あるいは領主(ガリラヤではヘロデ・アンティパス)から税金の取り立てを委託された役職。異邦人である外国の支配者のために働くばかりでなく,割り当てられた税額以上の金を取り立てて私腹をこやすという理由で,ユダヤ人から憎まれ,「罪人」と同様に見なされた。(新共同訳聖書の解説)
徴税人が嫌われた理由は、税金を払えない人への懲罰があるようです。そもそも、職業柄いつも多額の現金を持ち歩きますので、護衛を付けています。その護衛を使って、暴力を奮うまたは、脅すわけですから、憎まれるのは間違いありません。また、当時のユダヤの習慣で、考え方が近い人でなければ一緒に食事をしませんでした。ファリサイ派の人々は、徴税人を罪人(国を売ったローマの手先、不正な取り立てをする人)と評価していましたから、徴税人の家に入ることも、徴税人と同じテーブルを囲むこともしませんでした。
レビは収税所で座っていましたが、それが通りから見えるところから考えると、レビは通行税を取る徴税人だと考えられます。聖書にはザアカイと言う徴税人の頭が出てきますが、このような頭がローマや領主と取り立ての契約をして、実際に集めるのはレビのような下っ端でありました。とは言いながら、レビの家では大勢で食事ができましたから、裕福ではあるようです。普通のユダヤ人の家は、中庭付きですが、家畜部屋や倉庫部屋を含め4部屋しかなく、そこに大勢は集まれません。
2.私に従いなさい
イエス様は、レビに「私に従いなさい」と言います。そこには、群衆もいましたし、徴税人の仲間もいたはずです。それなのに、イエス様はレビに向かって急に呼びかけたのでしょうか?レビがすぐ従ったっところを見ると、すでにイエス様のことを信じていたのかもしれません。そういう目でイエス様を見ていたのだろうと思われます。ファリサイ派の人々は、徴税人のことを「罪びとの仲間」として、ファリサイ派の人々と区別をしていました。しかし、イエス様は徴税人が罪人とされていることも問題にしませんでした。イエス様は誰にでも分け隔てをしないのです。
ところで、イエス様がレビの家の食事に招かれたのはしばらく時間をおいての事でしょうか?そこには、イエス様のほかに多くの徴税人や罪人がいました。レビが招いたのか、イエス様の指示だったのかはわかりませんが、少なくともイエス様はここでも分け隔てなく、一緒に食事をすることを選んでいます。罪びとたちと一緒のテーブルを囲むということは、仲間として受け入れていることの証であることは間違いありません。ファリサイ派の人々としては、イエス様のようなことはやってはいけない、罪人と自分たちは区別しなければならないと教わってきましたから、驚いたわけです。そして、それ以上に驚いたのは、大勢の徴税人や罪人たちがイエス様に従っていたということでした。
もちろん、ファリサイ派の人々もレビの家に来ています。そして、罪人達とは別のテーブルを囲んでいたのでしょう。普通は、ファリサイ派の人々は徴税人の家に行くことはありません。しかし、食事をするにしてもテーブルが別であれば、受け入れ可能だったのでしょう。ですから、当然イエス様はファリサイ派の人々のテーブルの前に座る(実際は横たわる)と思っていたのに、罪人のテーブルに行ったことに不満も持っていたと思われます。そして、イエス様にではなく、イエス様に聞こえるように弟子たちにこのように言います。
「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」
イエス様は、それを聞いて直接お答えになりました。
3.罪人を招くため
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
お医者さんは、丈夫な人の健康チェックをすることもありますが、大部分は病人を治すのが仕事です。また、病人を診察し、治療するためには、その病人に会うことから始めます。会って患者のお話を聞いてあげて、そして信頼関係を築くことが第一歩となります。
イエス様は、正しい人には心の医者は必要でないので、罪人のために、その心の救いのためにこそ治療をしたい。だから、イエス様は罪人たちのところに来て、食事に招き、そして同じテーブルで食事をしたのです。このまま素直に読むと、ファリサイ派の人々のように正しい人たちには、イエス様の助けがいらないとも言っているように聞こえます。しかし、決してそのような趣旨で言われたのではないと思われます。ファリサイ派の人々は正しいのではなく、正しいと思い込んでいるだけだからです。自分が正しいと思っている人には、慰めもいらないばかりか、指導を受け入れる隙間はないのです。その反対に罪人には、罪人とならざるを得ない事情がありますので、そのことを慰めてあげなければなりません。また、自分が罪人であることを十分に知っていますから、イエス様の言葉を受け入れようとするのです。