バルティマイ(ティマイオスの息子の意)は、盲人でした。そして、物乞いをして命をつないでいます。彼に、本当に必要なものは、日々物乞いをしてありつけられる食事ではありません。もっと本質的に必要なものは、目が見えるようになることでした。そして、日々の糧という必要ではありながら本質的には必要でないものを求めて暮らしていました。そして、本当に必要なものが分かっているのに、それを求めることができないでいたのです。しかし、彼はイエス様に出会って、本当に必要なものを知り、それを切に求め続けたのです。
1. 妨げるものがあっても
イエスがエリコに到着して、群衆と一緒にエルサレムに向かおうとしたとき、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていました。彼は、「ダビデの子イエス」に従っていきたいと願っていたと思われます。しかし、彼には問題がありました。目が見えないので、従っていこうにも「人々の足手まとい」になるだけで、イエス様の役に立たないだろうことから、断念していたのです。
そのとき、バルティマイはイエス様と共にエルサレムへと向かう大群衆に出くわしました。目の前に来ている人がその「ナザレのイエス」であることを聞いて、一度は諦めた思いがよみがえってきたのです。
「イエス様ならば、目が見えるようにしてくれるに違いない」とイエス様の持つ力を信じ、イエス様に頼るために叫びました。「イエス様に従うためには、目が見えるようになる必要がある」・・・バルティマイが本当に必要としていることが、イエス様に出会ったからこそ気が付いたのです。そして大声でそのことを訴えたのでした。
彼は神様に祈るように、そして神様に向かって叫ぶように、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐んでください」(10:47)と言い始めました。「ダビデの子」とは、救い主メシアの称号です。つまり、来るべき王である方イエスよ、自分に神様の憐みをください、と繰り返し叫び続けたのです。これを迷惑に思う多くの人々は黙らせようとしました。
『10:48 多くの人々が叱りつけて黙らせようとした』
しかし、人々が黙らせようと叱りつけるほどに、バルティマイは、叫び続けました。目が見えるようになる。そうでなければ、イエス様に従ってエルサレムに向かうことはできないでしょう。そして、イエス様は目が見えるようにするだけの権威を神様から頂いている。そのことを信じている彼にとって、これが一期一会。どんなことがあっても、訴え続ける必要があったのです。途中でやめては、元も子もありません。今まで通り、物乞いをして過ごし、イエス様に従うことのない日々が続くだけです。今までも目が見えることを望んではいました。しかし、今は目が見えれば便利だとかの都合の問題ではなくなりました。命を懸けてイエス様に従っていこうと願う、その願いが叶うかどうか・・・そんな時に、周囲の迷惑などを気遣っているわけにはいかなかったのです。
2. 見えない者こそ見えている
バルティマイの叫びはイエス様に届きました。イエス様は「あの男を呼んで来なさい」と命じます。人々はバルティマイにそのことを伝えると、
『10:50 盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。』
彼は上着を捨て、躍りあがって、イエスのところに来たわけですが、彼の数少ない持ち物のひとつであり、商売道具である上着でさえも真っ先に彼は捨てたのです。そこには、こんな理由がありました。イエス様の所に来て、従う者は、すべてのしがらみをかなぐり捨てて来ると言う意味です。文字通り、バルティマイは、持っているものすべてを捨ててイエス様の所に駆けつけようとしていたわけです。そのいわれは、ヘブライ人への手紙にあります。
ヘブライ『12:1 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、』
イエス様はバルティマイに「何をしてほしいのか」と声をかけました。「憐れんでください」と何度も何度も叫んでいたことを受けてのことですから、当然の問いかけです。ここで、考えられる彼の答えは、「弟子にしてください」と「目が見えるようにしてください」です。そこで、彼は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えました。見事な選択でした。自分の責任でできる事と、自分ではどうにもならないことを分けて考えた結果、「目が見える」ことを選んだのです。イエス様に従うことが目的ではあります。しかし、弟子となっただけでは、働けないばかりかほかの弟子たちに迷惑をかける。ならば、目が治りさえすれば、イエス様に従っていくのは自分の責任でやり遂げればよい。そんな、決断がそこにはありました。
ところで彼はなぜ、イエス様に従いたかったのでしょうか?。イエス様に従うことそのものは、彼の一番の目的だと言えるのでしょうか? 彼は、「ダビデの子、来るべき王とともに、エルサレムに上る」このことを証しするのが バルティマイの与えられた役割だったと思われるのです。この バルティマイの信仰はイエス様の弟子たちと対照的でした。ヤコブとヨハネの目は見えていましたが、イエス様の十字架と復活の予告は見えていませんでした。彼らが願っていたことは、何よりも自分たちがより高い位に着くことであって、イエス様の十字架と復活は目に見えていなかったのです。一方で、バルティマイの目は見えないのですが、イエス様が十字架に向かっていることが見えていて、そして同行を決意したのです。
3. 本物の弟子となる
バルティマイに対して、イエス様は「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と答えました。人を救うことができるのは、神様だけです。神様がバルティマイに信仰を与え、見ることができなかった人を見えるようにしたのです。「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」