1.祈ること
『1:35 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。』
ここを読むと、イエス様は朝早く暗いうちに起きて祈ることで、一日を始めていたことが、書かれています。「人里離れた所」とは、イエス様が父なる神様に1対1で向き合っていたことを表しています。祈りは、神様とおしゃべりする時でありますが、大まかにこの四つが祈りの課題となるでしょう。
第一の課題は、「心身の疲れ、霊の衰えを癒す、回復する」ことです。イエス様は日々悪霊と闘い、追放することで、人々を癒しました。この悪霊との闘いに疲れたイエス様は、祈りで癒されるのです。
第二の課題は、「その日に必要な霊の糧・命の糧を受ける」ことです。肉体を養うために食べものが必要なように、霊を養うためには霊の糧が必要です。その霊の糧を与えてくれるのが、祈りなのです。特に朝の祈りをもって一日を始めるのは大事です。毎朝、朝食をとるように、朝一番で聖書の御言葉をいただき、祈りをもって一日を始める。これが祈りの生活です。
第三の課題は、祈りによって「神様の御心、神様が求めていること、自分の使命」を知ることです。
「人里離れた所」とは「荒野」とも訳せます。イエス様は荒野でサタンの誘惑に遭いながら、神様の御心とご自分の使命を確認したことを思い出してください。私達もまた、祈ることによって神様の御心を知り、自分の使命を知るのです。
第四の課題は、「執り成すこと」です。自分のことだけでなく、神様のため・隣人のため・世界のためにも祈ります。イエス様は弟子達・家族・地域の方々・癒した一人一人・ユダヤ人のこと・この世のすべての人のことを覚えて祈ったと思います。イエス様に従う私達もまた、人のため・この世のために「執り成して」祈るのです。
『1:36 シモンとその仲間はイエスの後を追い、1:37 見つけると、「みんなが捜しています」と言った。1:38 イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」1:39 そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。』
イエス様を見つけたシモンたちが「みんなが捜しています」というと、ガリラヤ地方の町や村に行き、宣教し、悪霊を追い出された とあります。ここには、「ここに留まってほしい」という人々の願望については、書かれていません。しかし、文脈的に言えば、弟子たちは朝一でイエス様を探すのが習慣だったと言えます。そして、イエス様を見つけると、すぐに次の村に向かう結果となったのでしょう。イエス様はしるしを示した場所にとどまらずに、次にしるしが必要な場所に移動していったのです。それは、父なる神様の御心・み旨を第一として歩んだイエス様が示されています。神様の御心とは、この世の一人でも多くの人に福音を宣べ伝えることでした。イエス様はそれを第一にしたのです。
2.重い皮膚病を癒す
『1:40 さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。』
重い皮膚病は、以前は 「らい病」(ハンセン病)のことですが、当時のパレスチナにはらい病はなかったようです。ですから、ここでは「ハンセン病」以外の重い皮膚病を患った人を指すことになります。「重い皮膚病の人」は律法の規定では「汚れた者」「不浄の人」とされ、普通の人々の間に住むことも、人と接触することも禁じられていました。町や村、集落から隔離され、排除されていたのです。彼らは肉体の痛みに加え、社会的に差別・隔離・排除された痛みの中にいました。
この重い皮膚病の人は、人と接触してはならないという律法を破ってイエス様の前にひざまずきます。病を治してほしいという必死の思い、決死の思いからです。しかし、「御心ならば」と言います。また、「おできになります」とイエス様を深く信頼しています。これらの言葉の中に、イエス様に対する深い信仰を見ることができます。そのような彼に対してイエス様は『よろしい、清くなれ』と言われました。するとその人は清くなったのでした。
『1:44 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」』
重い皮膚病の人が社会復帰するためには、病が治るだけではなく、祭司に見せなければなりません。律法では、社会復帰するための手続きまで書かれています。イエス様は、癒しと社会復帰を行いました。