1.はかりごと
エルサレムとその神殿は、ユダヤ人の信仰の中心的な存在でした。年に一回の過ぎ越しの祭りの時期には、この聖地に世界中から巡礼者が押し寄せました。この祭りは、イスラエルをエジプトから救い出した神様の業を記念して、ユダヤの民が守ってきたものでした。(この祭りの規定は、「出エジプト記」12章に書かれています。)過ぎ越しの祭りでは、小羊とパン種の入っていないパンを食べます。お祝いは春分の日の後にくる月(ニサンの月)の15日(満月の日)に行われます。ですから、14日夕方までが小羊を屠って、過ぎ越しの食事の準備をする事となります。そして、日が落ちて15日になると、過ぎ越しの食事をします。過ぎ越しは一晩で終わりますが、15日から1週間つまり21日までが除酵祭です。過ぎ越しの祭りと除酵祭は、そもそも別の祭りだったようですが、現在では一体となってしまって、過ぎ越しの祭りになりました。元はと言うと、過ぎ越しは夏を迎えて場所を移動するにあたっての、厄除けの祭りだったようです。また、除酵祭は収穫祭(麦は春に収穫)だったようです。
過ぎ越しの祭りでは、多くの人々がエルサレムに集まるため、にぎやかなだけではなく、熱心党のようなユダヤの独立を目指している人々も集まってきます。実際、反乱(テウダ、ガリラヤのユダ 使徒5:36-37)がおきており、いつ何か事件が起きてもおかしくない時代でしたので、大勢が押し寄せて来る過ぎ越しの祭りは、緊張が高まります。さらに、エルサレムにイエス様が入城し、大衆が出迎えるという、特別な緊張感があったのです。
ユダヤ人の指導者たち(祭司長、律法学者)は、計略を用いてイエス様を殺そうとしていました。理由は、イエス様の行う権威ある業と言葉が邪魔だったからです。その端緒となったのは、イエス様の宮清めの時でした。
マルコ『11:18 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。』
彼らは、ただでさえ事件が起こりそうな過ぎ越しの祭りの期間に、そのはかりごとを行うことは避けようと考えました。宗教的に熱狂している民が、ユダヤの独立熱と相まって、暴動がおこる心配があったからです。しかし、はかりごとを実行するべき時は迫っています。こうして人々が気づかぬうちに、はかりごとの準備が進んでいたのです。
2.香油の贈り物
イエス様はエルサレムの近郊にあるベタニア村に投宿していました。「マルコによる福音書」は、イエス様がらい病人シモンの家に住んでいたと、伝えています。この場所で、ある女が事件が起こしました。
マタイ、マルコ:ベタニアで重い来病人シモンの家 一人の女
ルカ :ファリサイ派の人の家 一人の罪深い女
ヨハネ :マルタの家 マリア(マルタの妹?ほかのマリア?)
古代でも、良い香りがする香油は、貴重で値段が張りました。この女性は、福音書に名前がないことから、身内でもなければ、呼ばれた客ではありません。ましてや名のある女性でもないわけです。そういった、見も知らない女性が、突然訪問しただけではなく、高価な香油の入った壺を取り出して壊し、イエス様の頭に香油をかけたのです。その香油の価値は、当時の労働者の一年分の給料に相当するほどでした。このような高価な香油は、大きなお祝いや重要な人物のために用いられましたので、持って歩くようなものではありません。おそらくこの女性は、わざわざイエス様のために香油を持参したのでしょう。
またこの油を注ぐと言う行為は、「イエス様こそは神様が旧約聖書で約束した救い主であり、油注がれた王である」、という信仰告白でもありました。そして、もう一つ、油を塗る意味があります。イエス様は、女性が油を塗った理由を言います。当時は、葬式の前に死者の体に没薬と香油を塗る習慣がありました。(今もカトリックでは、礼典として塗油をします)実際、イエス様の十字架の時は、日没が迫っていて油を塗る時間がなかったので、そのまま墓に入れられました。その証拠になる記事があります。
マルコ『16:1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。』
つまり、結果的にこのときに、葬りの準備が行われていたのです。
この油を塗る意味を知らないで、香油を無駄にしたと思ってつぶやいた弟子たちは、イエス様から叱られます。香油を塗るという女性の行いは、イエス様に信頼する彼女の愛情表現でした。愛の前には、お金の多寡は影響が少ないものです。その女性は、自分の持っているものを差し出しただけなのかもしれません。そこに、お金の力にまさる愛があります。この短い物語ですが、一人の女性がイエス様への愛を「証」したという、エピソードとして語り継がれることになります。
この一人の女性の「証」物語は、その前にあるイエス様の暗殺計画によって、引き立てられています。また、この次の箇所では、ユダが裏切りを企てています。祭司長たちと律法学者たちの所に行って、イエス様を売ろうとしたわけです。ですから、この香油の物語は、祭司長たちがイエス様を殺す計略とイスカリオテのユダがイエス様を売る企てと言う、暗い記事に挟まれています。その暗い記事の間にあって、この香油の物語は、純粋にイエス様を信じ、持っているものの中で最も高価なものを捧げたその事実を輝かせていると言えるでしょう。また、この物語が葬りの準備であるならば、この前後の記事は、「イエス様を殺す準備」として、ちょうどサンドイッチの状態でセットになっているのです。