2025年3月30日主日礼
「天からのパン」
聖書 出エジプト記16:4-16
受難節第二週になりました。 今日は、モーセの出エジプト記からお話をします。イスラエルの民がエジプトを脱出して1ヶ月、一行はシンの荒野(シナイ半島の南西部)に導かれます。しかし、一月もたつと、食べ物も底をつき始めていたのでしょう、人々の不満が高まります。
出『16:3 イスラエルの人々は彼らに言った。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。~』
イスラエルの民は、「食べるものがない、エジプトにいた方が幸せだった」とつぶやいたのです。しかも、このつぶやきはかなり執拗に繰り返されました。彼らの言い分を聞いてみると、さもエジプトにいたときは満足していたかのようです。しかし、そんなことはありません。民はエジプトで奴隷として、労働に明け暮れ、疲弊しきっていたのです。それなのに彼らは、エジプトで幸せだったかのように言います。それは、モーセに不満をぶつけたにすぎません。
『あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられた』と、言っていますが、彼らは奴隷でした。過酷な労働を強いられ、とても耐えられない生活をしていたのです。そのエジプトでの奴隷時代がなぜ懐かしいのでしょうか?。それは、モーセと行動を共にした事への後悔であります。食事に困るなどとは思いもせずに、モーセについてきたことを悔やみ始めていたのです。考えてみれば、そもそも奴隷は不自由ですが、明日のことを心配する必要はありません。なぜならば、主人は大切な労働力として奴隷の命を守るからです。だから、奴隷である限りは、日々の生活が苦しくても、明日のことについて悩む必要はないのです。それが今は、奴隷の身分から解放されると、目の前に食べ物がないという現実がありました。あしたは、何を食べれられるのか?これは、切実な問題です。奴隷であった頃は、主人がどうにかして食べ物を調達したでしょう。しかし、養ってくれる人はこの荒野にはいないのです。こうなると、リーダーであるモーセに批判が集中します。
さて、イスラエルの民は「不平を言」いましたが、ここに使われているヘブル語のニュアンスは「つぶやき」です。この言葉が短い文章の中に何回も使われていることから、彼らのつぶやきが結構しつこかったのだと思われます。このイスラエルの民のつぶやきですが、他人事ではありません。私たちは、教会で礼拝を守りながらも、同じように、つぶやいてしまうからです。それは、期待の大きさの表れだと言えます。そもそも、罪の奴隷であった私たちが教会に来て神様を礼拝しています。大きな転換ではありますが、私たちの本質はゆっくりと変わります。ですから、俄かに人間関係が改善したり、健康が回復したり、経済的に潤ったり 等と期待が大きいと、現実は追いつかないと言えます。その結果、「教会に来て、特に良いことが無かった」などと、つぶやく事もあるわけです。さて、希望をもってエジプトを脱出したイスラエルの民は、モーセに従うことで、たしかに自由を得ました。そのかわりに、明日のことを心配しなけらばならなくなったのです。私たちと、同じです。神様を信じてついてきた。でも、良いことばかりが起こるわけではない。そんなとき、私たちの心はつぶやきます。それは、自分の思い通りにはいかないことへの つぶやきです。欠乏はしていないのです。それなのに、求めが満たされないと、つぶやくのです。そもそも神様は、全ての人々を養ってくださっています。そこに、信頼することが大事です。これまでもそうだったように、神様が養ってくださるので、欠乏することはありません。しかし、どうしても、人より良い目にあいたいと欲を出してしまう私たちが、います。・・・イスラエルの民は、荒野に導かれました。荒野であるために、水や食べ物が少ない。だから、民から不満が出ました。しかしその不満を通して、イスラエルの民は神様の偉大な業を見ることになります。それが「マナの奇跡」です。
出エジプト記は語ります。
『16:12 「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」』
与えられた食べ物は、うずらとマナでした。聖書は、淡々と伝えます。
『16:13 夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。16:14 この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。』
うずらは、4月頃アフリカからヨーロッパに渡ります。その途中にシナイ半島を通るわけです。紅海を一気に飛び超えて、体力を消耗した鳥たちは、休むために地上に舞い降ります。その様子が民数記にあります。
民数『11:31 さて、主のもとから風が出て、海の方からうずらを吹き寄せ、宿営の近くに落とした。うずらは、宿営の周囲、縦横それぞれ一日の道のりの範囲にわたって、地上二アンマほどの高さに積もった。11:32 民は出て行って、終日終夜、そして翌日も、うずらを集め、少ない者でも十ホメルは集めた。そして、宿営の周りに広げておいた。』
この記事を読むと、単なる偶然ではなく、神様のご意思であることが示されます。この時期、この場所であるからこそ、そして、イスラエルの民を導いていたのが神様であるからこそ、このしるしが示されたのだと思います。2アンマが約90cm、10ホメルが2,300ℓですから、圧倒的な食べ物が与えられたのです。
そしてマナです。民数記にこの説明があります。
民数『11:7 マナは、コエンドロの種のようで、一見、琥珀の類のようであった。
11:8 民は歩き回って拾い集め、臼で粉にひくか、鉢ですりつぶし、鍋で煮て、菓子にした。それは、こくのあるクリームのような味であった。11:9 夜、宿営に露が降りると、マナも降った。』
コエンドロの種とは、香辛料のコリアンダーですね。胡椒の種ぐらいの大きさの白い種です。葉っぱは、パクチーとしてよく食べられています。このコエンドロの種に似ているというマナは、樹木に寄生する虫の分泌物だと言う説があります。それは、今でも食されているとのことですが、イスラエルの民の主食として足りるほどの量がとれた、ということは、やはり神様の御業であり、神様が民にしるしを示したのだと思います。
出『16:35 イスラエルの人々は、人の住んでいる土地に着くまで四十年にわたってこのマナを食べた。すなわち、カナン地方の境に到着するまで彼らはこのマナを食べた。』
この記事は、ほかの食べ物がなかったか、あったとしても主食と言えるものはマナしかなかったことを示します。つまり、神様がイスラエルの民の食ベ物を準備し、養い続けたのです。それを荒野で40年間もです。
『16:16 主が命じられたことは次のことである。『あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。』」』
1オメルは、2.3ℓです。結構な量ですね。一部の人はそれ以上に集めましたが、腐ってしまったとの記事もあります(出16:20-21)。一日一オメル、神様は必要なものを必要なだけ与えて下いました。しかし、必要以上に集めたものは腐った。ここに神様の本質があります。神様は、明日も必ず養ってくださるのです。だから、明日のために、余分に蓄える必要はありません。
ところで、私たちは主の祈りで「我らの日用の糧を今日も与えてください」(マタイ6:11)と祈ります。この祈りは、マナのしるしから来ています。神様は必要なものを与えて下さいます。民は「マナとうずら」で、養われました。しかし、神様の養いを信じない人は、たくさん集めたのです。明日のことの心配するからです。しかし、明日も神様に養われる。私たちはそれを信じるとき、平安が与えられます。モーセは、エジプトを出て40年間の荒野をさまよった後に、死の床に民を集めて、このように言いました。
申命記『2:7 あなたの神、主は、あなたの手の業をすべて祝福し、この広大な荒れ野の旅路を守り、この四十年の間、あなたの神、主はあなたと共におられたので、あなたは何一つ不足しなかった。』
イスラエルの民は、食べ物のことでつぶやいてきました。しかし、食べ物以外のことも、必要なすべてを神様は40年間の長きにわたって与えて、神様は民を養ってくださったのです。そして、何一つ不足しなかった。その大事な養いの一つが、み言葉です。神様のみ言葉をいただき、そしてそのみ言葉に信頼することが、私たちが生きていくうえで、食べ物以上に大事なのです。
ところで、荒野を旅するイスラエルの民の希望は、約束の地に入ることでした。しかし、神様が、約束の地に民を導き入れたのは、40年に及ぶ荒野での生活の後です。だから、エジプトを出た人々のほとんど全部が荒野で死にました。彼らへの、救いはなかったのでしょうか?・・・ 確かに、肉体的な命は失ってしまいました。しかし、霊的な命まで失ったのではありません。
そこで命ですが、ギリシャ語の命には、「ビオス:βίος」と「ゾーエー:ζωή」の二つがあります。ビオスは肉体的な命を指し、ゾーエーは精神的、霊的な命を指します。私たちは、肉体的な命を養う「この世のパン」と共に、霊的な命を養う「天からのパン」が必要です。そしてこの「天からのパン」はしばしば苦難の中で与えられます。出エジプトのとき、モーセが語った「神様の言葉」は、霊的な命を養うパンだったのです。そして、「神様が養ってくださる」との信頼が、私たちの信仰なのです。私たちが苦難にある時こそ、神様は共にいてくださる。その恵みに与るよう、神様のみ言葉を信じてください。御子イエス・キリストは、神様から遣わされ、私たちに寄り添ってくださっています。そのイエス様を信じることで、神様の平安の中にあることに感謝しましょう。