1.罪のために死んでいた
『2:1 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。2:2 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。』
パウロは、強い言葉を使って、「自分の過ちと罪のために死んでいた」と言っています。これは、私たち人間が考えられるような、あらゆる可能性を否定しています。
イエス様は、このように言いました。
マタイ『16:25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。』
私たち人間は、自分の命を救おうとします。自分が満たされるものを求めるわけです。しかし、イエス様は、「かえって、満たされることがないですよ」と言っているのです。しかし、イエス様に会って、「自分は死んでいた」ことを認めるときに、初めて自分の命が失われずに生かされるのです。 そして、パウロがここで言う、「過ちと罪」とは、意図せぬ違反であり、故意の違反であります。どちらにしろ、決まり事から外れているわけです。基本、この決まり事とは、神様を愛し、他人(ひと)を愛することでありますから、そこが的外れだったということであります。
また、「不従順な者たちの内に今も働く霊に従い」と言われているように、「過ちと罪を犯し」ていたのです。ここの従うというのは、流されるままに、と言い換えてよいと思います。この世の流れに流されるままなだけではありません。「空中に勢力を持つ者」(直訳:空中の王国の支配者)に従っているとあります。空中に勢力を持つ者というのは、悪魔のことです。神の国から追い出された悪魔は、今、空中(この世)にいます。そして、神様に不従順である者たち、神様に背を向けている者たちの中に、この悪魔が働いているのです。神様から自由になり、自分は主体的に生きていると思っている者は、実は悪魔に従っているのです。
『2:3 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。』
私たちは、肉の欲の中に生きている者たちでした。そして、肉の欲は、「肉と心の望むままを行なう」ところに現われます。 そして、このような生き方をしていると、「神の怒りを受けるべき者」とありますように、罪の中に死んで、肉の欲の中に生き、そして最後は神様の裁きを受ける事になります。
2.神様の憐れみ
『2:4 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、2:5 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――2:6 キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。』
死んでいた私たちに対して、神様は生かしてくださいました。神様が、キリストを復活させたように、私たちを「罪による死」から復活させるために、キリストとともに働いてくださるのです。これは、神様の恵みに他ならないです。私たちはまず、生かされました。罪の中に死んでいたのですが、神様は新しく生まれさせてくださいました。また、イエス様は神様の右の座に着いていますが、私たちもともに天にすわらせてくださるのです。 そして、パウロは、このことは、「神のあわれみと愛」であると言います。私たちが救われたのは、ただ恵みによるのです。私たちには、神様に何ら愛されるべき理由も原因も要素もありません。罪の中に死に、この世の流れのままにされ、悪魔の霊に従い、肉の欲に生きている私たちに、何ら好意を寄せられるはずがないのです。ですから、神様が私たちを救った理由は、神様の憐れみでしかありません。
『2:7 こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。』
ここの意味は、イエス様の恵みが啓示されるには、永遠に時間がかかるということです。あとに来る世々でも、この豊かな恵みが明らかにされていきます。私たちが天に引き上げられて、イエス様にお会いし、イエス様とともに過ごすときには、ますますその恵みは明らかにされるでしょう。
3.恵みによる救い
『2:8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。2:9 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。』
救いをもたらした信仰は、私たちが持っている力によるものではなく、また、私たちの行ないによるものではありません。それは、神様からでているものであります。ただ、パウロはここで、「信仰によって」という言葉を入れています。私たちは何もしなくても、自動的に救われるのではないからです。神様の救いを受け入れることが必要です。信じることによって、初めて神様の恵みがその人のうちに働くからです。 そしてパウロは、「だれも誇ることがないためなのです。」と言っています。もし救いが神様から出たものであり、私たちから出たものでなければ、その栄光は神様に至ります。一方でもし、私たちの行ないによって救われるのであれば、私たちは誇るでしょう。それは自分を誇りたいという動機がいつもあるからです。しかし神様は、私たちの誇りをすべて取り除くために、すべての救いを、神様の恵みによって与えるのです。
『2:10 なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。』
救われた私たちは「神に造られたもの(作品)」であると、パウロは言っています。この作品とは、ギリシヤ語で「ポエマ:ποίημα」であり、その言葉から英語の「ポエム」つまり「詩」が派生しました。つまり、私たちは神の芸術品なのです。そしてパウロは、この作品は「良い行ない」によって作られる と話しています。私たちが救われたのは行ないによるのではないのですが、救われた私たちは結果として「善い業」をするようになります。しかし、それも「神様が前もって準備してくださった」ものなのです。