2025年 9月 21日 主日礼拝
『雨は神様の霊』
聖書 アモス書8:1-14
今日は、旧約聖書のアモス書からお話しします。これは、預言の書で、羊飼いのアモスが書きました。
アモス『1:1 テコアの牧者の一人であったアモスの言葉。それは、ユダの王ウジヤとイスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの時代、あの地震の二年前に、イスラエルについて示されたものである。』
この記事を見ると、アモス自らが牧者だと言っています。「ユダの王様がウジヤ王(在位BC783-BC742)、北イスラエルの王様がヤロブアム2世(在位BC782-BC753)のころ活躍した」と言う事ならば、北イスラエルとユダ王国が最も栄えた時代です。この時代は、北イスラエルとユダ王国は同盟を結んで、領土をダビデ王のころほどに戻していたようです。その後、新アッシリア帝国(BC911-BC609)の台頭によって、北イスラエルは滅び、ユダ王国もエルサレムの町を包囲されるほど、衰えてしまいます。そんな、悲劇を前にして、テコアというユダにある町(エルサレムの南側18km)に住む羊飼いアモスが、北イスラエルの将来を預言したのです。そして地震ですが、BC780年頃に大地震があったらしく、イスラエル周辺の遺跡にその痕跡があるそうです。神様の裁きだと言われるような大地震の2年前に、この預言が示されていたのです。アモスは、預言者として教育されたわけではなく、本当に、ただの羊飼いでした(アモス7:14)。そのアモスが、神様からの裁きの言葉を預かったのです。・・・
アモスは、五つの幻を見ましたが、大地震の二年前に第三の幻を見ます。
アモス『7:9 イサクの塚は荒らされ/イスラエルの聖なる高台は廃虚になる。わたしは剣をもって/ヤロブアムの家に立ち向かう。」』
つまり、ヤコブの子ヨセフの直系(代上5:2)である北イスラエルが滅びる。この言葉を、一介の羊飼いであるアモスは神様から預かっていたのです。
当時の政治的状況は、列王上12:25~33にあります。「ヤロブアム2世の治世で、北イスラエルはその絶頂期に達していました。……ヤロブアムはシリアを破り、ダビデの時代の最北端まで領土を拡張していました。……
当時、北イスラエルは安泰に見えました。ユダ王国との同盟も強力だったからです。やがて新アッシリア帝国は勢力を拡大してきましたが、このころはまだアッシリアは脅威ではありませんでした。しかし、地震の二年前に神様はアッシリアを使って、北イスラエルを滅ぼすことを決めていたのです。その発端は、北イスラエルの初代王であるヤロブアム1世にあります。彼は、エルサレムの神殿に対抗して子牛をベテルの町に祭り、罪を犯しました。それが、滅びの始まりでした。
列王記『12:32 ヤロブアムはユダにある祭りに倣って第八の月の十五日に祭りを執り行い、自ら祭壇に上った。ベテルでこのように行って、彼は自分の造った子牛にいけにえをささげ、自分の造った聖なる高台のための祭司をベテルに立てた。』
このことを、北イスラエルの国に警告し続けたのが、預言者ホセアと羊飼いアモスです。
さて、今日の聖書は第四の幻です。アモスは、神様から示されました。
『8:1 主なる神はこのようにわたしに示された。見よ、一籠の夏の果物(カイツ)があった。』
収穫された夏の果物は、北イスラエルの絶頂期を示します。その次に来るのは、「北イスラエルの最後(ケーツ)」です。カイツとケーツは発音が似ていますし、もともとカイツにも終わりというニュアンスがあります。籠に入れられていたのは、熟れ切ったイチジクでしょうか? 北イスラエルの裁きの時が来ていることを神様はアモスに見せたのです。果物は花が咲いてから、実を結んで、大きく育ち、熟成、そして腐敗と変化します。熟した果物は甘くておいしいのですが、腐ると捨てられるのです。
『8:5 お前たちは言う。「新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。』
北イスラエルの民は、新月祭(仮庵の祭り)や安息日には、礼拝を守る習慣があります。そしてその日には、神様に向き合うために、そして休息をとるために、労働が禁じられています。しかし、彼らの心は神様にはなく、商売のことばかり考えています。北イスラエルの民は、祭りや安息日の「形だけ」を守っていたのです。そもそも、神様の戒めを破って子牛の像を礼拝しているわけですから、北イスラエルの神様への信仰は、形だけです。そして彼らの心の中は、いかに人をだまして儲けるか・・・そればかりなのです。麦を売るとき、小さい升を作っておくと、その分だけ仕入れる麦が少なくて済みます。そして、さらに麦を売った代金を銀でもらう時に、秤に使う分銅を重めにしておけば、その分だけの銀をだまし取ることができます。まだあります。秤に細工する・・・なんと、三重に不正をして儲けようと・・・、神様と向き合って礼拝するための安息日なのに、人を欺く方法を考えているのですから、不正を働くための安息日になっています。このように、律法を形だけ守っていては、意味はありません。むしろ、神様への冒涜と言えるでしょう。
『8:7 主はヤコブの誇りにかけて誓われる。「わたしは、彼らが行ったすべてのことを/いつまでも忘れない。」』
これは恐ろしく厳しい言葉です。しかし、神様を信じる私たちにとっては、とても大事な言葉です。神様を信じたことを忘れられては困るのです。私たちの罪は、神様を信じることによって赦されます。一方で、神様を信じないままであれば赦されずに、有罪のまま。そのどちらかです。たぶん、私たちはアモスの預言の通りに、いつまでも罪を覚えられて有罪なはずです。しかし憐れみ深い神様は、私たちの小さな信仰を覚えていて、私たちを赦すのです。・・・その恵みに感謝です。
神様は、その裁きの日をアモスに見せます。
『8:9 その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ/白昼に大地を闇とする。』
これは、日食のことを言っているのでしょう。 ただ、この時代の日食は、国家の滅亡や大きな禍を暗示するような出来事として、とらえられました。そういう意味で、この日食は、禍の予兆です。また聖書は、日中に暗闇がやってくる描写によって、裁きの時を示しているのです。
『8:11 見よ、その日が来ればと/主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく/水に渇くことでもなく/主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。8:12 人々は海から海へと巡り/北から東へとよろめき歩いて/主の言葉を探し求めるが/見いだすことはできない。』
神様は、「人々は「主の言葉」を探し求めるが、見いだすことができない。と宣言しました。そして、飢えと渇きはその日に、神様が送ろうとしているものです。「その日が来れば、だれもが「主の言葉」を真剣に求める」ようになるためです。
『8:14 サマリアの罪にかけて誓う者ども/「ダンよ、お前の神は生きている。ベエル・シェバよ/お前の愛する者は生きている」と言う者どもは/倒れて再び立ち上がることはない。』
「サマリアの罪」とは、北イスラエルのダンの町に祭られた金の子牛を意味します(ホセア8:5)。ベエル・シェバは、南のユダ王国のさらに南にある異国の町です。このベエル・シェバは有名な偶像(バウル)礼拝の中心地でありました。北イスラエルの人々は、偶像に誓いを立てたり、偶像を礼拝するためにユダの国を縦断してベエル・シェバに通ったのです。神様は宣言します。偶像礼拝をする彼らは倒れ、二度と立ち上がることはない。これは、神様の決定です。偶像礼拝をする人々の罪は、もはや取り返しがつかないのです。それにしても、「倒れて再び立ち上がることはない。」との出来事は、何を指すのでしょうか? アモスは、こんな「み言葉」も取り次いでいました。
アモス『5:4 まことに、主はイスラエルの家にこう言われる。わたしを求めよ、そして生きよ。5:5 しかし、ベテルに助けを求めるな/ギルガルに行くな/ベエル・シェバに赴くな。ギルガルは必ず捕らえ移され/ベテルは無に帰するから。』
このように、偶像礼拝は無に帰するから、神様を求めなさい とアモスは以前から預言していたのです。神様を求めると、神様の恵みによって豊かに生きる事ができます。だから、神様は「わたしを求めよ、そして生きよ」と命令しているのです。
イエス様は、このように言っていました。
ヨハネ『14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』
私たちの命はイエス様から来ます。イエス様には、命の泉があります。私たちの命は、イエス様を通して神様を求めることによって、与えられるのです。そして、私たちには、命を得るか死か という二つしかありません。すべての人間は、永遠の命を得るか?死によって消え去るか?に分けられます。・・・だれであろうと、永遠の命を得たいのです。・・・しかし、永遠の命は、キリストの道を通して神様を求める。その道筋にしか無いのです。この神様の招きと、イエス様の導きに答えて、神様を求め、そして生きましょう。