ヨハネ15:12-17

 イエス様の約束

2024年 4月 28日 主日礼拝

わたしの掟

聖書 ヨハネによる福音書15:12-17


今日はヨハネによる福音書から取り次ぎます御言葉には、「互いに愛し合いなさい」という命令が初めと最後にあります。その前提には、「イエス様が弟子たちを愛したように」、とのイエス様の一方的な愛があります。イエス様が愛した・・・このイエス様の愛とはどのような愛でしょうか?。それは「あなたがたを友と呼ぶ」、「あながたを選んだ」ということばに表われています。

 まず、愛と訳されているギリシャ語を確認しておかなければなりません。ここで使われている愛は、アガペーの愛です。イエス様の愛であり、一方的な私たちへの愛であります。ですから、「あなた方を友と呼ぶ」のも、「あなた方を選んだ」のも、イエス様であります。そして、「互いに愛し合いなさい」と命令するわけです。この愛もアガペーの愛です。お互いにイエス様が私たちを愛したように、一方的に愛しなさいと言っています。そこにあるのは、私が相手を愛する一方通行の愛と、相手が私を愛する一方通行の愛。この2つの一方通行の愛の存在です。注意したいのは、人間の世界で言う「友と互に愛し合う」ことは、アガペーの愛ではなくフィリアの愛だということです。それとは異なり、イエス様の愛し合いなさいとの命令は、アガペーの愛なのです。皆さんも、何度も聞いていると思いますが、ギリシャ語の愛は主に3つあって、エロース、フィリア、アガペー(あと、ストルゲー)ですね。エロースは男女の愛です。その特徴は一方的なことであります。見返りも求めません。そして、神様の愛は、アガペー。これも一方的な愛です。私たちは与えられるばかりで、受けている恵みに見合うお返しはしていません。そして、友達関係の愛がフィリア。その特徴は一言で言うと「それだからの愛」です。つまり、見返りを求める愛であります。ギブ・アンド・テイクの関係と言ったらよいのでしょうか? これは、相互依存な関係で、お互いに付き合う価値があるから、愛する愛なのです。今日のみことばであるイエス様の命令は、フィリアの愛ではないことに注目しましょう。イエス様は、「私と友だちとの間にあるフィリアの愛を、私の友だちへ向けたアガペーの愛と友達の私へ向けたアガペーの愛、その二つの一方通行の愛に置き換えなさい」と命令しているのです。フィリアの愛で結ばれていることを考えてみましょう。あなたと友だちは、利害関係がうまく行っているなら、そして似た者同士等であるなどの理由で居心地よいなら、付き合い続けるでしょう。一方で、利害関係に酷いトラブルがあると、絶交するかもしれません。しかし、イエス様の掟は、そう言うフィリアの愛のことを言っているのではありません。一方的にあなたの友だちを愛しなさいと命令しているのです。そして、その友だちにもイエス様は命令しています。一方的にあなたを愛しなさいと。・・・そこには、あなたの都合も、友だちの都合も存在しません。イエス様は、一方的に相手を愛する事だけを命令しています。先ほどエロースは一方的な愛だと言いました。アガペーも一方的な愛です。打算のない愛は、一方的な愛なのであります。そして、イエス様は、打算の愛であるフィリアの愛ではなく、アガペーの愛で愛し合いなさいと命令しました。見返りを求めるのではなく、相手に愛されようが愛されまいが、その一方的な愛によって行動することによって、私たちはイエス様とより強くつながるのです。


イエス様は「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と言いました。今日の聖書の中には、3度「友」ということばが出てきます。「友」と訳されたギリシヤ語は(「フィロス」φίλοςです。)普通には、仲間とか、友人を表わすことばです。ここではイエス様が 友(「フィロス」)を奴隷(「ドゥロス」δούλους)と対比しながらの このみことばです。

『15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。』

「友」と「僕」との違いは、自由人と奴隷といった身分であります。また、友と呼ばれることは、人格を認めていることを指します。ですから、自分が「友」に何かをしてもらいたい時に、「友」にはその目的を知らせます。目的を共有することで、協力する動機ができ、また、良い結果を得られるからです。一方で、「僕」には、やってほしいことだけを伝えるだけで、自分の考えまでを共有することはあまりしないでしょう。「僕」は主人が命令したことはしなければならないからです。

 ところで、人間的な「友」と「友」の関係は、フィリアの愛によって維持されます。一方で、「主人」と「僕」の関係は、基本的に契約によるものであります。もちろん、「主人」と「僕」のあいだに「友」と「友」の関係を作ることもできます。その、「友」と「友」ですが、そのつながりは、何によってもたらされるのでしょうか? 少なくとも、何かを共有しています。その共有している事こそ、私が何者であるかの本質の一つなのであります。


 「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」―これはヨハネの福音書にしかない表現です。「友」ということばは、ごく平凡なことばですが、ヨハネの福音書では、キリストと私たちの親しいかかわりを表わすものとして「友」が使われています。ですから、「友」との間にあるのはフィリアの愛ではなく、アガペーの愛であることが前提です。私たちは、互いに一方的に愛している。そういう関係になりなさい と教えているわけです。「その友との関係」は、イエス様が見本を示しました。全ての人々を愛したのです。そして今もイエス様は、私たちを無条件に愛してくださっています。何事にも足りない私たちなのにです。


 イエス様はここで、「父から聞いたことを、すべて知らせた」と言いました。なぜ、このような事を知らせるのでしょうか? それは、あなたも私もイエス様にとって「友」だからです。イエス様が父なる神様から聞いたこと。そこには、神様の秘密も含まれます。「神様の秘密も含めてすべてを知らせた」ということは、イエス様が私たちを友だと思っているからです。私たちはイエス様の友として、神様の秘密を知る者となりました。そのしるしとしてイエス様の友には、特権が与えられているのです。それは、天国と言う神様の御国に入ることです。このようにして、「イエス様との友情」は、私たちの信仰を揺るぎなくします。その友情とは、両方向のアガペーの愛がもたらします。愛によって、信仰と祈りの生活は本質的に変わります。私たちに喜びと平安が与えられ、そして、私たちは自由になります。・・・教会での働きはの原動力は、イエス様の役に立ちたいとの自由意思です。ですから、誰からも強制されているわけではありません。イエス様の友人として、イエス様の伝道の働きを理解し、共有するのです。私たちはイエス様の友です。決して、僕ではないのです。

 日々を「イエス様の友として過ごす」ことは、私たちが何者であるかを物語っています。私たちのアイデンティティは、イエス様と共にあることです。決して、私たち自身の中にアイデンティティがあるわけではありません。私たちの中にイエス様の愛が入ってきて、イエス様との間をつないでいます。しかし、私たちの愛は完全なものではありません。そして、その愛は弱く不安定であります。一方で、イエス様は、私たちの足りない部分を補っています。このイエス様の愛があるこそ、私たちの信仰と愛がはぐくまれるのです。

 イエス様が私たちを友と呼んでくださる。その関係の原型は、父なる神様と御子なるイエス様との関係です。イエス様は、父なる神様からすべての秘密を知らされました。それは、神様の僕としての命令ではありません。そしてまた、イエス様にはご自身で選ぶ自由がありました。イエス様は父なる神様から支配されませんし、父なる神様とは異なる個性(ペルソナ)をもちます。同じように、イエス様の友となった私たちは、すべてのことを知らされ、父なる神様の秘密を知る者とされました。そして同じように、私たちには自由があります。ですから、イエス様にアガペーの愛をお返ししたいと願うわけです。


このように「友」として「互いに愛し合うこと」がイエス様の命令でありますし、それを弟子たちに求めているのです。先ほども申し上げましたように、イエス様が使っている愛と言うことばは、アガペーの愛です。無条件の愛です。そして一方的な愛です。自分に都合が良いことが起こることを期待しての親切であるならば、それはフィリアの愛です。フィリアの愛は、「それだからの愛」なのであります。一方で、アガペーの愛は、無条件の愛ですから何も求めません。イエス様は、私たちを選びました。一方的にです。私たちがイエス様を選んだわけではありません。イエス様は私たちを一方的に愛しているがゆえに、私たちを選んでくださったのです。しかも、「何かが優れているから」選ばれたわけでもありません。 むしろ、選ばれるような価値がないにもかかわらず、イエス様は私たちを選んだのです。


『15:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」』

 私たちは、自立した人間として、イエス様の友であります。そして、僕ではありません。ですから、イエス様のこの命令を守るかどうかも自由であります。しかし、イエス様に愛されていて、そしてイエス様を愛しているならば、それを守りたいですね。

 ところで、実はこの箇所は、微妙に違うのであります。直訳しますと、

「これらの掟を与えるのは、あなたがたが互いに愛し合うためです。」

となります。

 ですから「互に愛し合いなさい」だけを切り取って、それがイエス様の掟であるというのは、どこか足りないと言えます。そのイエス様の掟とは、今日の聖書の最初に書かれているとおり、と受け止めるのが良いでしょう。

『 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。』

・・・「私が愛したように」これが頭につくのが、イエス様の掟です。

イエス様は、私たちを愛するゆえに、その命までを捧げました。その事実を踏まえると、イエス様は大変なことを命令しているわけです。ですから、単純に「仲良くやりましょうね」という意味に解釈しては、軽すぎると言えます。私たちに求められているのは、自己犠牲を顧みずに相手を一方的に愛することです。ですから、「わたしがあなたがたを愛したように、互に愛し合いなさい」とイエス様が言ったその愛は、自己犠牲を伴う一方的な愛なのであります。それを行うためには、私たちの愛では不十分ですね。・・・と 言うことは、イエス様から頂かなければなりません。キリストの愛で私たち全ての者がつながっていくことでしか、この命令を守ることが出来ないのです。そう考えると、ここでの「互いに愛し合う」ことは「それだからの愛」つまりフィリアの愛では不十分です。教会は強くなりません。そして、教会の人間関係が、利用しあう関係になってしまいます。だから、すべてのクリスチャンは、「わたしがあなたがたを愛したように、互に愛し合いなさい」との掟を守ることが求められています。これは、私たちが「キリストにとどまること」と同じことになります。ですから、「キリストのことばにとどまること」、「キリストの愛にとどまること」を、聖霊の助けによって導かれていきましょう。またそうなるように、祈って求めてまいりましょう。