ルカ4:31-45

 悪霊にとりつかれた男

 このルカの箇所は、マルコによる福音書1章21-39節とほぼ順番も含め同じです。ルカはマルコを参考にしたことがよく分かります。マルコの方がルカより先にできたとされていますから、ルカはマルコを参考に書いたのか、ルカがオリジナルな記事を起こすような隙間がなかったのだと言えます。そのことから、マルコの背後にいる群れと、ルカの背後にいる群れは、今日の箇所については、疑いのない事実として広く共有されていたとすべきでしょう。


1.汚れた霊に取りつかれた男

 イエス様の言葉に「権威」があったと、ルカは記しています。権威とは、「特権、すなわち(主観的に)力、能力、自由、または(客観的に)習得、委任された影響-権威、管轄権、自由、権力、権利、強さ。」のことを指します。イエス様の教えには力があり、そしてその教えを語るにふさわしいだけの学問的習得や霊的な経験値が充分であったという意味に捉えることが出来ます。

 一方で、汚れた悪霊にとりつかれた男が会堂にいました。この男の周囲の人々が悪霊を取り除くために会堂に連れてきていたのでしょうか? 突然その男が叫びます。

『ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。』

「かまわないでくれ」という表現は、「邪魔をしないでくれ」とのニュアンスがあります。

「汚れた悪霊に取りつかれた男」はなぜイエス様の正体を知っていて、そして「邪魔をしないでくれ」と叫んだのでしょうか。ここで彼の置かれている境遇について考えてみましょう。

 新約聖書には、イエスが悪霊に取りつかれている人に対して悪霊を追い出す記事があります。悪霊に取りつかれている人々の特徴は、社会で生きにくいというところにあります。そのほとんどの理由は、その行動にあります。自傷行為、暴力・暴言、突然の引きつけ発作、等の心配があるので社会との友好な関係を持つことが出来ません。いわゆる厄介者として、人々から排除されていました。

 そして、その原因は神様の裁きの結果と考えられていました。病にしても、このような障害にしても、悪霊がとりついてしまったからには、何らかの神様に呪われることを本人または近親者が引き起こしたのだと言う考えです。特にこの男は、その行状と、当時の医者にかかっても治らないことから、周囲からは悪霊にとりつかれていると理解されていました。

 安息日の礼拝に、この男が来て、たぶん会堂に集まった人々は「関わりあいたくない」という雰囲気を出していたのでしょう。その男は、その扱われ方に慣れていました。それが、イエス様から視線を注がれると、慌てました。イエス様は、この男にかかわりたいと思われていたからです。

 この男が本当に悪霊にとりつかれていたならば、その悪霊は追い出されようとしていることに気づくわけです。そして、「邪魔をしないでくれ」と叫びますが、イエス様は、その悪霊を追い出してしまいます。これで、その男はいやされるわけです。一方で、この男が悪霊にとりつかれているのではなくて、言葉や表現力が不足しているために、どんなに自分のことを説明しようとしても「悪霊にとりつかれている」とみなされていたのかもしれません。ですから、いつも会堂の片隅にいるのが良かったのです。それで、イエス様に見つかって、会堂の片隅で無視され続けていた生活から脱却する機会を得たとも考えられます。

 悪霊を追い出したイエス様の行動が人々の賞賛を呼んだのは、イエスの立ち居振る舞いに権威のある者にふさわしいと見たからです。悪霊が本当にその男にとりついたかどうかはさておいて、イエス様はこの男と出会って、その境遇を無視しえなかったのです。そして、迷わずにかかわることで、この男と人々との関係性を回復してくださったのです。

2.多くの病人

 シモンの家でシモンのしゅうとめが熱を出していました。熱も悪霊なのでしょう。イエス様は熱を叱りました。すると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が病人を連れてやってきては、イエス様の癒しを受けさせます。イエスさまは、ことごとく病の根源である悪霊を追い出しました。そして、悪霊たちは、イエス様のことをメシアであると知っていました。そして、イエス様がそのことを言わせないために物を言わないように戒めました。それは、まだ十字架の時ではなかったからです。悪霊とはダイナモン(悪霊、悪魔;異教徒の神)のことです。悪霊は、逆らうことなく、イエス様の権威に従ったのだと考えると、そもそも悪霊も神様によって造られた被造物なのだということになります。メシヤの権威は、被造物全部に及ぶからです。

3.巡回する

 群衆は、街にとどまってもらいたいと願ったのでしょう。悪霊にとりつかれた者たちが、すっかり元の生活を取り戻したと言うことは、それを支えてきた人々にとっても、生活を取り戻すことだからです。しかし、イエス様はほかの町にも巡回をすることが必要でしたから、町々で会堂を回って、宣教します。イエス様のすべきことは、宣教だからです。