マルコ1:9-11

わたしたちのために

2023年 1月 8日 主日礼拝

わたしたちのために

聖書 マルコによる福音書 1:9-11           

 先週は新年礼拝を守りました。正月はコロナのための自粛要請もなく、ゆっくりとご家族やお友達と出かけられた方も多かったと思います。とは言え、早くコロナの前に戻ってほしいですね。


 さて今日の聖書です。そのころとは、「バプテスマのヨハネが人々にバプテスマを授けていたころ」のことです。

 ルカによる福音書によると、ヨハネからバプテスマを受けた直後に、

ルカ『3:23 イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。』とありますし、マリアが受胎告知を受けたときに、ヨハネの母エリサベツは妊娠6か月でしたから(ルカ1:36)、ヨハネとイエス様が、30歳のころに活躍をし始めたことがわかります。

そして、ヨハネは、『「わたしよりも優れた方が、後から来られる。』と語り、『1:8 わたしは水であなたたちに洗礼(バプテスマ)を授けたが、その方は聖霊で洗礼(バプテスマ)をお授けになる。」』と、救い主が現れることを預言していました。


 今日は、三人の博士がイエス様を訪ねたことを記念する顕現節にあたりますが、イエス様がバプテスマを受けたとされる週でもあります。イエスと言う名前は「ヤハゥエは救い」という言葉からきています。旧約聖書では、この名前の読みをヨシュアとしていますが、新約ではイエスと書き表されています。これは、ヘブライ語読みではイェホーシュア、そのギリシャ語表記がイエスースとなるためで、元は同じ名前です。そしてヤハゥエとは、神様の名前ですから「イエス」とは、神様であるヤハゥエへの信仰を表した名前であります。そして、同じイエスを名乗る人が多いですから、ヨセフの子イエスとか、ナザレが出身地なので、ナザレのイエスと呼ばれていました。このガリラヤのナザレという所は、注目される邑ではありませんでした。救い主であるイエス様は、預言通りにベツレヘムで生まれましたが、育ったナザレは、無名の邑だったのです。このことは、イエス様が弟子を集めているときにもうかがえます。ヨハネによる福音書によると、(『1:45 フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」1:46 するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。』とあります。)救い主がガリラヤのナザレから出るはずがないとの、先入観が見られます。


  30歳ころになってナザレから出て来たイエス様は、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマを受けます。

 バプテスマのヨハネが授けていたのは、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマでした。どうしてなのかイエス様は、ヨハネからバプテスマを授かったのです。神の子であって、罪がないイエス様です。イエス様が悔い改めのバプテスマを受ける必要は見当たりません。それなのになぜ、イエス様はバプテスマを受けたのでしょうか?。


 その答えは、マタイによる福音書に、書かれています。

マタイ『3:13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼(バプテスマ)を受けるためである。

3:14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼(バプテスマ)を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」

3:15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。』

 イエス様には、悔い改めの洗礼(バプテスマ)を受ける必要はありません。けれども、それをあえてすることに、意味があったのです。イエス様はわたしたちが見習うべきことをして見せたのです。わたしたちは、イエス様に見習おうとしますから、イエス様の言われたこと行われたことを大事しています。ですから、罪がないと言ってイエス様は自分を特別扱いにしませんでした。イエス様は自ら罪ある者のようにして、わたしたちにお手本をお示しになったのだと考えてよいでしょう。


  新約聖書を構成する4つの福音書のうち、最初に書かれた福音書は、このマルコによる福音書です。マルコでは、イエス様の誕生の経緯などは一切なくて、バプテスマのヨハネが現れると、すぐにイエス様のバプテスマとなります。マルコが、この始まりを選んだのは、「イエス様との体験こそが福音だ」との考えがあったのだと思われます。わたしたちの頂いた良きしらせを受けて、わたしたちは信仰を頂きました。わたしたちは、このように信仰を表しています。

 【神の子であるイエス様は、人となってこの世に降って来られました。罪の中にいるわたしたちを救うために来たのです。わたしたちは、イエス様のみ言葉ととりなしを通して、神様から救いの恵みを受けていることを知りました。そしてイエス様への信仰を告白して、バプテスマを受けました。バプテスマを受けることによって罪深い身を水に沈め、神の御手である聖霊によって、新しい命を頂いたのです。】


 イエス様は、救いの道をはっきりと示すために、ご自身には必要のないバプテスマを受けました。わたしたちが、イエス様の後を従っていくように、救いに招いておられるのです。わたしたちを羊の群れに例えるならば、イエス様は羊飼いとして、わたしたち迷ってばかりの羊の群れを先導されたのです。羊であるわたしたちは、イエス様からの教えを頂いていても、自分で判断をして歩むことが苦手なのです。ですから、イエスさまにそのままついていく。それが、私たちのできる良い選びとなるのです。 


  『水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように』、イエス様に降って来るのを見ました。

すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が天から聞こえます。


 イエス様が水から上がると、すぐに(εὐθέως)天が裂けて開かれました。このすぐに「εὐθέως」と訳される単語は、すぐにとか、まっすぐにとの意味を持っていて、このマルコだけに多数使われている特徴だと言えます。そして、やっかいなことにはギリシャ語の原文には、だれが見たのかも書いていませんし、見たと言う言葉もありません。一方で、ヨハネによる福音書の並行記事には、バプテスマのヨハネが「見た」と証ししておりますので、バプテスマのヨハネが見たのは確かであります。もちろん、そこに居合わせた人々の多くも見たと思われます。マルコは、そもそも「見た」とは書いていなかったことから、「天が開かれて、聖霊が鳩のようにイエス様に降るのを感じた」と言った「目や耳だけではなく、体全体で感じた」ことなのかなと思われます。この降った聖霊のことですが、誰が降したのでしょうか?ルカは、

『3:21 民衆が皆洗礼(バプテスマ)を受け、イエスも洗礼(バプテスマ)を受けて祈っておられると、天が開け、3:22 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。~』と書いています。ですから、天が「裂け」、聖霊が降ったのは、ヨハネの洗礼(バプテスマ)によるのではなく、神の子であるイエス様の祈りによることが明らかであります。神様であり、また人としてこの世に来られたイエス様が、聖霊を降したのです。この出来事によって、偉大な救い主としての権威を天におられる神様から頂いたのであります。


 そして聖霊の働きは、神様とわたしたちの二つをつなぎ、一つに結び合わせます。イエス・キリストの復活の命にわたしたちが与れるのは、聖霊の働きによるものであるからです。


 イエス様が洗礼(バプテスマ)を受けたことによって、聖霊が降りました。こうしてイエス様が 救い主としての生涯を始められます。この時、イエス様は与えられた使命のために、神様に祈りました。この祈りによって、父なる神様とイエス様とが、聖霊によって結ばれたのです。これは同時に、この世と神様のおられる天の国との道が開かれたことを示します。そして「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえてきます。


  イエス様の地上における生涯で、天からの声は、三度ありました。最初が今日の洗礼(バプテスマ)の場面です。二度目は、イエス様がペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登られた時に、イエス様の姿が変貌した場面です。

マルコ『9:7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」』

 そして三度目が、イエス様が十字架につけられる最後の一週間である受難週の祈りの時です。これは、ヨハネの記事によるものです。

ヨハネ『12:28 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」』

 いずれの場面も、イエス様が神の子であることを証しする父なる神様の声でした。このように、「神の子である救い主とは、イエス様の事である」と、福音書は神様ご自身が証したことを伝えているのです。


 こうして、神様ご自身が証をするのは、イエス様こそ、救い主だからです。イエス様はヨハネから、洗礼(バプテスマ)を受けた大勢の中の一人ではありますし、また、優れた指導者の一人です。しかしそれ以上に、イエス様は、神様の「愛する独り子」である救い主だからこそ、神様ご自身が証されたのです。


 聖書にでてくる「愛する」という言葉の代表は、神様の愛であるアガペー(ギリシャ語:αγάπη )の愛です。神様はイエス様を愛しておられます。そして、それだけではありません。イエス様も神様を愛しておられ、神様と共に生きておられます。イエス様はわたしたち罪人を救うために人として降り、救い主としての生涯を始められました。しかし、イエス様ご自身は、罪人とならねばならない負い目も、悔い改めの洗礼(バプテスマ)を受けなければならないような罪も ありませんでした。ただただ、神様がわたしたちを愛し、共に生きることを願われるが故に、そしてイエス様ご自身もわたしたちを愛し、わたしたちと共に生きることを願われるが故にです。イエス様は、ご自身でわたしたちに救いをもたらそうとして、十字架での犠牲を選ばれたのです。イエス様は、人となって降ってこられたのは、神様の愛だけではなく、イエス様ご自身の「わたしたちのために」との強い意志でありました。神様はこのようなイエス様を、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言います。この原文を直訳すると「最愛の息子よ、わたしはあなたに満足しています」となります。神様はイエス様の判断に満足されたのです。


  わたしたちは、イエス・キリストの み言葉と自ら犠牲になる愛の行為によって、信仰が与えられました。また、イエス様を信じることによって、イエス様は神様に祈って執成してくださいますから、わたしたちのために聖霊が降ります。こうして、わたしたちが神様の愛の業の中に生きています。新たな年を迎え、日常生活にもどっていくなか、わたしたちにもたらされている「イエス様の恵みと神様の愛」に改めて感謝して祈りましょう。