詩編100:1-5

感謝をささげよう

2023年 1月 15日 主日礼拝

感謝をささげよう

聖書 詩編100:1-5 

  今日は、聖書で最も読まれている箇所の一つ、詩篇100篇からです。この詩篇の95篇から100篇は、ひとつのまとまりで、「礼拝」について歌っています。この箇所は特に、礼拝の時、招きの言葉として使われますし、この100篇や95篇を題材とした讃美歌は多く作られています。

 ダビデの時代の礼拝では、讃美は感謝の捧げ物をするときに歌われたようであります。その様子が、詩篇にもこのように歌われています。

『147:7 感謝の献げ物をささげて主に歌え。竪琴に合わせてわたしたちの神にほめ歌をうたえ。』(他、詩篇107:22)。

 また、OLD100th(old hundredth)という讃美歌があります。これは、古い詩篇の歌の100番目という意味ですが、新生讃美歌にも収められています671番がそれにあたります。主に、頌栄に使われています。実は、この100番目というのは、もう一つ意味がありまして、詩篇100篇のことを指します。宗教改革当時にはすでに歌われていて、その荘厳な雰囲気と和声は、特別だと思います。この詩篇は「感謝の祈り」に満ちた讃美として、書かれて以来、わたしたちの礼拝で歌われてきました。

『全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。』

とあります。原文では主ではなく、神様の名前「ヤハゥエ」と書かれています。ただ一人の神様であるヤハゥエに、感謝で感極まって、叫んでしまうように喜びを表しなさいとの呼びかけです。では、詩篇100篇が呼びかけている感謝とはいったい何なのか考えてみると・・・


 それは、神様の恵みに対する わたしたちの応答であります。


 第一に、礼拝を守るとき、 わたしたちの心は、感謝で満たされます。なぜなら、礼拝で語られているみ言葉、そして歌われている讃美は、単なる礼拝の形(映像と音声)ではありません。礼拝の中心は、神様であり、わたしたちの感謝の気持ちです。その感謝の気持ちは、神様から頂いた喜びによって心の奥から湧き出るのです。


 そして、わたしたちは、その感謝の気持ちを礼拝の中で表わすことが大事です。感謝の気持ちは、心の中で始まってはいても、心にしまったままであれば、共に礼拝する者と共有できないからです。公然と、喜びをもって、私たちの神様への喜びを、すべての人に向けて知らせたいのです。決して大きな声で叫ぶ必要はありません。しかし、心の底からの声であれば、その感謝の気持ちは誰にでも伝わるのです。これは、心による讃美であります。


 この讃美の奉仕に一人であたるよりも、一緒に礼拝に参加する人たちと共有したいものです。もちろん一人でも讃美はできますが、共に声をそろえて讃美する一体感は、神様のみ言葉に相応しい応答となります。わたしたちは、神様の恵みに対して、感謝の応答をするために、礼拝に参加しているのです。一人だけ、離れて立っていてはいけません。私たちは、聖なる日を守るために、信仰の友である会衆のみんなと共に、讃美し、そして、降り注ぐ聖霊に与るのです。


 そして、それはすべて神様の栄光のためであります。司会者も、伴奏者も、説教者も聖歌隊も会衆の讃美も、このことを忘れてはなりません。


『100:2 喜び祝い、主に仕え/喜び歌って御前に進み出よ。』

 礼拝ではすべての奉仕者は、神様のために喜んで働きます。そして、それぞれが、その感謝の心をもって、神様の御前に出ます。それは、実際に礼拝堂の前の方に進み出ることではありません。心の中で、神様の目の前に出て、顔を合わせることです。神様のことを思い。そして、神様への感謝を表す 言葉、祈り、讃美を献げる。それが、わたしたちが大事にする礼拝であります。


 さて、私たちが礼拝する神様である、ヤハゥエとは、いったいどういう方なのでしょうか? 3節を読んでみると、

『100:3 知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民/主に養われる羊の群れ。』とあります。

 先ほど、「主とは、神様の名前であるヤハゥエの事」だと言いましたが、ここでは、「主」と一緒に「神」が出てきます。原語では、エロヒームであります。そこで、主と神について、少し説明をします。

まず、主と訳されている言葉は、元の聖書にはヤハゥエまたは、アドナイと書かれています。アドナイとは、「神様の名前をみだりに唱えてはならない」(出20:7、申命5:11)ことから、祭司が律法を読むときに、ヤハゥエと書いているところを、アドナイ:「わが主」と読み替えたのが始まりです。したがって、旧約聖書で主とあったならば、ヤハゥエを指していると思って結構です。

次に神ですが、聖書にはエロヒームとエルが出てきます。創世記に出てくる天地創造の神は、エロヒームの方でありまして、今日の聖書の箇所も唯一の神であるエロヒームです。一方で、エルは広く神を示す言葉です。(特定の神を示す場合には、例えば、エル・シャダイ:全能の神(創49:25)などのように言葉を組み合わせます。)ということで、今日の聖書の「神」とは、天地創造の神のことであります。ヤハゥエこそが天地創造の神様ですので、ヤハゥエは私たちを造った神なわけです。ですからわたしたちはヤハゥエのものであり、ヤハゥエに養われているわけです。全てのものを創造し、そして全てのものを所有し、養う方であるヤハゥエは、わたしたちの救い主でもあります。このことを、わたしたちは信じて、神様の恵みを受けているのです。わたしたち人間は、罪深いにもかかわらず、神様はなぜかこの命を守ってくださっています。それは、神様ご自身の意思なのです。神様は、天地を創造し、わたしたちを造ったその責任を全て負われている。この神様の御意思は、わたしたち人間にとって命の根源であり、命が保たれている根拠であります。


 そのような神様ですから、神様はわたしたちを導く羊飼いであると言えます。

『わたしたちは主のもの、その民/主に。養われる羊の群れ』なのであります。わたしたちは神様の下にあるので、神様の愛によって養われるのです。神様の羊でありながら、わたしたちは罪人であります。それでも、神様は私たちを慈しんで下さるのです。

 さて、私たちはこの神様からの恵みを一方的に受け取っていますが、なにをお返しすることが出来るでしょうか? それは、神様に相対して素直に心から感謝することです。感謝のためには何の代償もいりませんし、どんな方法でもかまわないのです。しかし、こだわりがあって素直になれないと感謝をうまく表せません。神様を讃美する時に、素直に感謝の気持ちを表さなければ、その讃美は音と景色だけになります。もちろん、多くの人が素直な心で讃美しています。そんな讃美の中に、人々の感謝の気持ちを載せることが出来るのです。ですから、みんなでその感謝の気持ちを聞き合いながら讃美をすることで、神様のへの感謝を共有できます。共有し、共感し、そして互いに励ましあい、そしてまた神様への讃美を、神様への感謝を増やすことができるのです。


 神様を讃美するために、もし、妨げとなるものがあるならば、取り除いておきたいものです。素直に神様に感謝できない。その感謝の心の妨げとなっているものは何でしょうか? 例えば、他の人と比較をしてしまうことです。他の人が持っていて、自分が持っていないものがあれば、うらやましく感じます。また、うらやましさを通り越して、自分がみじめだと思ってしまうこともあるでしょう。人と比べてしまうと、うらやましさやみじめさはいつでも襲ってきて、感謝の気持ちの妨げとなります。そして本質的には、人と比べるのでは、神様への感謝へとつながらないのです。なぜなら、知らず知らずに、「人よりも多くを持っていることが感謝」という前提にたっているからです。その前提は、存在し得ない まさに絵に描いた餅でしかありません。あり得ないことを望んだならば、望みがかなう機会は、あるわけがないのです。全てを人より多く持っている人など居ません。その逆はどうでしょうか?。「全てを人より少なく持っている人」 そういう人も居ないのです。なぜなら、だれであっても、必ず良いものを神様から頂いているからです。ですから、人の成功や名声を見ては、自分に無いものをうらやましがるより前に、神様から頂いた自分の良いところを喜んで感謝することが必要です。もし、あなたが人の性格や容姿もしくは、成功や平安をうらやましそうに見たとします。そこで見えるのは神様とよその人と間の恵みでありますが、神様とあなたの間の恵みではありません。ですから、そのよその人の恵みを見たら、神様が与えてくれた自分への恵みに目を向けたいものです。そのためには、自分が持っている良いものに、目線を変えなければ始まらないのです。だけど、やはり人の恵みばかりを見てしまうのですね。・・・そんなおろかな習慣が私たちにはあるのだと思います。しかし、それが普通なのです。そして、この習慣こそ不幸を感じさせる根っ子の部分であり、神様への感謝を見えなくしてしまうのです。多くの人が、他の人が持っているものを見ると、自分の同じ部分を見ます。それが、自分の光が当たっていない面であることもありますから、そこに目が止まってしまうのです。そして、自分の光の当たっている面を見つけられないのです。

 悲しい習慣にはまだあります。わたしたちの受けている普段の恵みと憐れみを当たり前のことと考えていることです。この習慣も、感謝する心を妨げます。病気で痛みを覚え、健康が回復したとき、私たちはどれほどその健康な状態に感謝することでしょう。しかし、その後何ヶ月、何年と健康が続くと、感謝の気持ちをすっかり忘れてしまいます。神様の与えてくださった良いことに対して、あたりまえのことと感じるがために、感謝の気持ちは影をひそめてしまうのです。今、私たちは、神様に感謝を表すならば、「空気」のように、あって当たり前な神様の恵みに目を向け、その感謝に立ち返る必要があります。


 さて、神様の恵みに感謝という、祝福ですが、個人個人で意識して守っていくことは困難です。誰かの手助けが必要だと言うことです。何でもないようで、大事なものを神様から受け取っている恵みに目を向けること、そして感謝を表すこと。そのためには、そのことに気が付かなければ、始まりません。気づきは、讃美をすることや証をし合うことによって、引き出されていきます。なぜならば、すべての人は「空気」のような神様の恵み、あって当たり前な恵みに与っています。その恵みに気づいて証をする人がいますから、私たちは「空気」のようなありがたさをその証や讃美によって再認識できるのです。そして、一度誰かが、何でもないようなことに感謝を表すと、それは神様への讃美とつながります。会衆が一つとなって神様をほめたたえ、礼拝の霊性が高められていくことでしょう。


 ですからわたしたちは、礼拝で感謝を捧げていきたいのです。最後に100篇の4節5節を読みます。

『100:4 感謝の歌をうたって主の門に進み/讃美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。100:5 主は恵み深く、慈しみはとこしえに/主の真実は代々(よよ)に及ぶ。』