ルカ12:35-48

 思いがけないときに

 この物語は、マタイによる福音書25:1-13とよく似ています。マタイでは、終末を「花婿であるイエス・キリスト」と、「花嫁である教会」の結婚に譬えています。花婿の到着が遅くなるのを見通せなくて、文字通り「油断」で灯りを失った花嫁たちが、婚宴に間に合わなかったわけです。それに対して、ルカによる福音書では、結婚式に参列して帰ってくる主人とは、終末に来るイエス・キリストを指しています。

 どちらも「待つ」ことが背景ですが、婚宴に向かう時と婚宴からの帰りの時との違いがあります。ユダヤの結婚式はいつ始まるのか予測がつきません。理由は、花婿になる方がそれなりのお金を用意してから、正式に婚約をし、そして結婚となるからです。ですから、いつ花婿が迎えに来るかわからないのです。そして、始まる時がわからなければ、招かれた人も急に呼ばれます。そして、いつ帰ってくるかは、婚宴の盛り上がり次第なのでしょう。


1.思いがけないときに来る

 人の子とは、イエス様の事をさします。イエス様本人が自分の事を呼ぶときに使いました。ですから、イエス様は再臨の時が、思いがけなく来ることを教えていたのです。「腰に帯を締め」とは、正装をしいつでも主人「イエス様」を迎えられるように、備えなさいとの指示です。昇天したイエス様は、天の国での宴会に行っています。そして、いつ再臨するかは私たちにはわかりません。大概の人は、そういう場合、寝巻に着替えて、休んでしまうでしょう。それを、寝ずに正装して灯りを携えて「戸がいつ叩かれても開けられる」ようにしている僕は幸です。これまで、宴会で給仕を受けて食事をしていた主人は、着ている物を整えて、その僕たちに給仕してくれます。これは、天からの恵みの分配を象徴しています。それが、真夜中でも明け方であっても、眠らずに番をしている僕も幸いです。泥棒がいつやってくるかを知っている家には、泥棒に入れません。いつ来るかわからないから泥棒が成り立つのです。ですから、イエス様の再臨もいつやってくるかわからないので、目を覚まして番をするのが幸いなのです。


2.ペトロの質問

 『 12:41 そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、』


 どういうわけか、イエス様はこのペトロの質問を聞き流して、別の譬えを言います。考えられるのは、ペトロがこれまでの文脈でわかることを理解しなかった事と、イエス様は次の譬えで実はペトロの質問に答えていた事です。

 まず、いつ帰って来るかわからないということは、ペトロが死んだ後も入るわけです。そして、イエス様の2つ目の譬えは、あきらかにすべての人に向けています。誰でも管理人として立てられたならば、下の者に仕えるべきなのです。ですから、イエス様はどの時代の人にも、すべての人に向けてこのお話をしたのです。

3.管理人の譬え

 神様が世界中のリーダー(管理人)に求めていることは、食べ物を公正な基準で分配する「忠実で賢い管理人」であることです。「主人が帰って来たとき」、すなわち世の終わりに起こることは、イエス様が来て世界中のリーダーたちを尋問するという出来事です。その時、「言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである」わけです。神様は喜んで、その人に全財産の管理を任せるでしょう。

 しかし現実の世界では、多くのリーダーたちは、イエス様が現実に来ていないことに乗じて、「下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなこと」をし続けるでしょう。人々を暴力で支配し、自分のために穀物や富をむさぼって、貧しい人々に再配分しようとしない「愚かな金持ち」なのです。終末の主イエス様は、「予想しない日、思いがけない時に帰って来て」このようなイエス様に忠実でないリーダーを裁きます。後半の譬え話において、主人が帰ってくる目的は食事ではありません。世界を裁くための再臨であり、特にリーダーたちの行いを査定するためなのです。教会で行われている主の晩餐は、食事の配分であり、そしてイエス様の犠牲の記念です。リーダは、富を再配分し、そしてすべての人がイエス様の十字架によって我々が与った罪の赦しに感謝し、そしてすべての人が主の晩餐に与れるよう働くことを求められています。

『12:47 主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。12:48 しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」』

 ルカによる福音書にだけ、この記事が付け加えられています。大まかな内容は、「主人の思いを知っていたのなら、罪も罰も重い」というものです。神様の恵みを配分する大切さ(イエス様のその思い)を知りながら無視する僕は、よりひどく鞭打たれ、イエス様の思いを知らないままで、おろそかにした僕は、打たれても少しで済みます。法律用語で言う「故意」「過失」の違いです。末尾の「多く与えられた者」「多く任された者」という言葉は、民よりも多くの権限を預けられているリーダーを示しています。さらに言えば小さな組織ではなく国のような大着な組織のリーダーです。このようにして、ルカによる福音書は、リーダーたちに対する裁判および刑の執行の場面を強調しています。また、この譬え話は終末のイメージであります。世の終わりにイエス様は信者をひとりひとり前に立たせ、忠実な僕だったかどうかを尋ねます。だとしても、まず問われなければならないのはリーダーたちです。富、権力、名誉をむさぼって満腹している人々が、神様に名指しされ、真っ先に尋問されるのです。だから、終末は公正さを取り戻す私たちの希望となります。