Ⅱコリント5:1-5 

 天の住みか

2022年 918日 主日礼拝

天の住みか

聖書 コリントの信徒への手紙二 5:1-5

 今朝は、天に召された方々、信仰の先輩方を憶えて、召天者記念礼拝を守っています。さきほどの召天者名簿には、24名の名前があります。この方々の信仰や、教会とかかわってきた多くの方々によって、この経堂バプテスト教会が守られ、そして信仰が受け継がれてきました。特に今朝は、御遺族の方々にも来ていただきまして、礼拝を守っています。また、礼拝の後、続けて感話会を持ちますので、召天者の思い出などを分かち合いたいと考えています。この教会の召天者名簿に名前のない方も含めて、先にこの地上での生活を終えた方々を偲びましょう。みなさんで信仰の先輩方の「信仰の証」を分かち合いたいと思いますので、礼拝のあと、そのまま30分お付き合い願いたいと思います。

 さて、今週の聖句を週報に載せておりますが、今日の聖書箇所にかかわるパウロの言葉です。

二コリ『4:18 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。』


 ここで「見えるもの」とは、この地上の世界のことですね。今見えるもの、例えば、仕事や趣味、財産、評判、健康、人とのかかわりは、大事なことではありますが、永遠に続くものではありません。この世の事に目を留めて心を満たされていたとしても、この世の事には必ず終わりがあります。ですから、見えないもの、即ち、「神様」に目を向ける必要があるのです。キリストであるイエス様が、天の御国を用意して下さいました。その天の御国に目を留め、望みを置き、今を生きていくことには、終わりが来ないのです。

 見えるもの、この世の様々なものは、「一時的」なものです。一方で、天の御国は、とこしえに変わることなく、続くものです。私たちの地上での命には終わりがあり、体はやがて朽ちます。しかし、 私たちは、「見えるものがすべて」だとは考えていません。なぜならば、肉体の死によって私たちはすべてが終わるわけではないからです。私たちは、「見える世界」であるこの世から、「見えない世界」である天の御国に召されるのです。私たちを召してくださるのは、イエス様であります。


 イエス様は十字架の上で、私たちの罪を贖うために死にました。けれど、三日目に復活され、今も生きて働いておられるのです。イエス様が十字架の上で死んで、復活しました。そして、イエス様は私たちを天の国に引き上げてくださいます。私たちの命もまた、肉体の死と共に終わってしまうのではありません。確かに、

イエス様は甦られたのち、弟子たちの前に現れました。そして、今も生きて働いておられます。イエス様は、御言葉を与えてくださるなど、私たちを導き続けています。私たちは、その恵みに与りたいがために、毎週の礼拝に集ってきます。そして、信仰の諸先輩の証や行いに倣いながら、信仰生活を守ってきました。イエス様は、具体的に今生きて、私たちを導いておられるのです。私たちは、聖書からイエス様の言葉を聞き、イエス様のしたことを学びます。イエス様のみ言葉は、今私たちと共にあるのです。また、私たちはイエス様に倣って生きたいと、祈っています。イエス様に祈ると、イエス様は必ず答えて下さいます。聖霊を私たちに遣わすのです。このようにして、キリストの教会は二千年の間、イエス様とつながり続けています。また、これからもつながり続けるのです。  

 イエス様は復活され、天に昇られ、今も生きて働いておられます。イエス様は天の御国から聖霊を私たちに注いでくださることで、私たちはイエス様と共に居ることができます。同じようにイエス様と共にある、私たちの信仰の先輩たちはこの地上での生涯を終えました。しかし、それですべてが終わったのではありません。天の御国での生活がそこに あるからです。


 私たちは、この地上での生活を終えた人のことを「召天者」と呼びます。文字通り、「天に召された者」です。天とは神様がおられる所、イエス様がおられる所で、神様の御心が完全に行われる神の国のことです。地上の生活を終えた者は、そこに召されるのです。召されるのであって、自分で上がれるわけではありません。神様が、御自身のおられる所から手を差し伸べてくださいますから、私たちは御国に上ることができるのです。

 愛する者がこの地上の生涯を閉じる。死を迎える。それは本当に悲しいこと、辛いことです。しかし、それで終わりではありません。肉体の死で、すべてが終わるのではないのです。天の御国で命を頂くからです。私たちは、イエス様への信仰によって、永遠の命を約束されていますから、肉体の死によって滅びることはないのです。


 今日の聖書を読んでみましょう。

『5:1 わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。』


 幕屋と言うのは、移動用の家のことを指しています。テントだと思えばよいでしょうか? 実際に出エジプト記に書かれているモーセが使った幕屋は、庭を幕で囲んで、聖所と至聖所は、天幕(テント)の中に置かれていました。幕屋は、旅をする時に用いる仮の住みかです。そして、「地上の住みかである幕屋」とは、私たちの仮の家。つまり、肉体を指します。

幕屋が肉体をさすことは、ソロモンの知恵の書から来ています。

続編 知恵の書『9:15 朽ちるべき体は魂の重荷となり、/地上の幕屋が、悩む心を圧迫します』

 仮の住まいである地上での生活は、心が重く悩むことばかりだという趣旨の言葉です。

ここでは、朽ちるべき体の事を地上の幕屋と言い換えています。ですから、 パウロは、私たちのこの地上の住みかである肉体が滅んでも、天の国に永遠の住みかがあると宣言しました。私たちのこの肉体は、天の国に向かって旅するための、この地上での命を預ける、「仮の家」だということです。そして、この地上の生涯を閉じ、神様の御許に召されたなら、私たちは「神様によって備えられている建物」に住むようになります。この「永遠の住みか」が、天の御国です。


 「永遠の住みか」は、地上の生活をしている私たちには、この地上で手に入れることは出来ません。だから、聖書もこう言っています。

『5:2 わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。』


「天から与えられる住みか」とは、肉体の命が取り去られた後に着る「永遠の命」であります。それは、復活されたイエス様の体であります。天において、私たちはキリストを着るのです。つまり、私たちは神の御国では、キリストのようになるのです。

 この罪に満ちた体、地上の生活、そのすべてが、イエス様に包み込まれた結果、イエス様を着る者となります。それは実に、神様の独り子であるイエス・キリストに似た者にされるということです。神の子にふさわしい者とされるのです。神様を愛し、互いに愛し合い、支え合い、仕え合う者。私たちはそれを目指して、この地上の生活を歩んでいます。ところがもともと、罪に満ちた私たちです。地上でのこの生活は、順調ではなく、苦しみもだえることになります。なぜなら、私たちはイエス様の助けがなければ、「神の子たち」としてふさわしくないからです。


 私たちは今、天に召された愛する諸先輩を思い起こしつつ礼拝を捧げています。その愛する方々の歩みは、順調で完全なものだったのでしょうか?。そうでなかったかもしれません。それでも、この信仰の先輩たちは、天の御国を目指して歩みました。その歩みが十分でないときでも、先輩方の目指す所は、はっきりと天の御国でした。そして、天の御国を目指すのは、決して「今の世の中から逃げ出す」事ではありません。イエス様を信じているからです。そして、イエス様が再臨すると信じているからです。実際、パウロも次のように言っていました。


一コリ『15:52 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。15:53 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。15:54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。』


 「イエス様が再臨するので、その再臨の時に居合わせて、その死なないものを着るところを、自分自身で目撃したい」とパウロは願っていたのでしょう。


加えてパウロは、このように言います。

『5:5 わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。』

 

 私たちは、永遠の命に与るのに相応しくありませんが、神様の御意思によって、ふさわしくないまま永遠の命に与るのです。私たち自身の努力では、どうにもなりません。ですから、イエス様を信じることによってのみ、私たちは神様によって永遠の命に招かれるのです。決して、私たちは永遠の命に相応しい者ではありませんし、相応しくもなれないのです。それでも、肉体の中に住んでいる今から、イエス様の教えに従おうと、努力をし、もがいているのです。肉体の中に住んでいるときも、天の御国に住むようになる時も、イエス様に喜ばれることを望んでいるからです。私たちは、見えないものへの信仰によって、永遠の命が保証されています。その平安の中に私たちは居ますし、かつて肉体の中にいた召天者も この平安の中に居ました。そして、今は、天の御国でイエス様と暮らしています。この信仰の先輩方が今天国で暮らしていて、そして祝福を受けてることに感謝いたしましょう。そして、私たちもこの先輩方の信仰に倣って、歩んでまいりましょう。