テモテ3:14-16

 神の家

2022年 7月 24日 主日礼拝

神の家』   

聖書 テモテへの手紙一3:14-16 


 今日は、テモテへの手紙一から、み言葉を取り次ぎます。テモテ(希:Τιμόθεος)は、新約聖書の『使徒行伝』に登場するリストラ出身の本当に初期の初期からのキリスト教徒です。パウロが第一回伝道旅行でリストラに行ったとき、テモテはすでに二代目のクリスチャンでした。


『使徒言行録』(16:1)によれば、テモテの父はギリシア人で母はユダヤ人でです。パウロはテモテを気に入って、第二回、第三回伝道旅行に同行させました。パウロはテモテを各地の教会に派遣し、その指導に当たらせるなどして、共に福音伝道を進めていました。また『フィリピの信徒への手紙』などでは、テモテはパウロと連名で差出人となっていますから、当時のキリスト教会の中心的人物であったわけです。伝承によると、65年パウロはテモテを按手し、エフェソスの主教(司教)としたそうです。

 そして、テモテへの手紙一ですが、パウロの書いた手紙とされています。書いた場所ですが、文中の記事を信用すると、マケドニアです。ところが、パウロがエフェソから、マケドニアに行ったのは、第三回伝道旅行の時なので、この旅行に同行しているテモテがエフェソにいるのは不可解です。ですから、パウロがマケドニアで書いたと言う記事には疑問があります。それが、近年の研究によると、パウロがローマにいる頃、パウロの名を使って書かれたという説明されていますので、そちらが有力なのかもしれません。

 ところで、現代では差出人を偽って、手紙をだすことは、「してはいけない」事でありますが、当時は、尊敬している人の名前を使うことは、普通の事だったようです。このテモテへの手紙一は、牧会書簡と分類される、キリスト教の教えを説いた手紙です。そういう意味で、パウロの教えを良く理解している人が、パウロに代わって書いたという見方も、説得力があると思われます。ですから直接パウロが書いた手紙ではないにとしても、ローマでパウロが書いたという理解で良いのだと思われます。

 エフェソの町は、アジア地区最大の都市であり、キリスト教でも大事な拠点でした。特に、ギリシャ神話のアルテミス神殿があった街です。そして、アルテミス神殿の中にはありとあらゆる神々の像がありました。この異教の地に伝道をしていたキリスト教は、街の人々と衝突していました。エフェソのキリスト教会は、異教の一大中心地で伝道するわけですから、しっかりと教えの上に立っていく使命があります。そのようななか、異教徒とキリスト教徒との騒動の結果として、テモテは殉教したとされています。一方で、世界の七不思議と謳われたアルテミス神殿は、現在はありません。キリスト教徒が破壊したからです。いま、アルテミス神殿跡に行くと、柱が何本か立っていますが、観光用に復元されたものです。柱なども残さずに、全てが破壊しつくされたのです。その破壊を可能にしたのは、エフェソ中の人々の全てがキリスト教徒になったという、伝道の成果でした。これには、約200年かかったそうです。

 

 さて、パウロはローマの獄中で「エフェソの信徒への手紙」を書きました。その内容は、キリスト教の教えそのものです。そして、そのころエフェソの主教となっていたテモテにも、同じ時期に手紙を出したのであれば、その意図は明確です。異教徒にキリスト教を伝道することが、エフェソの教会の大きな課題でした。その達成のためには、エフェソの教会が、キリスト教を正しく学び、そして強く立つ必要がありました。

 パウロは、ローマの投獄生活から解放されたならば、エフェソに行きたいと思っていたようです。しかし、いつ行けるかは分かりません。そこで、エフェソに行く前から、エフェソで伝えようとしていたことを書きました。それは、「神の家」である教会で、どのように生活すべきか?でした。

 この手紙でパウロは教会を「神の家」と呼んでいます。文字通り、教会は、神様が住まわれるところであり、神様を礼拝するところです。ですから、教会は、神様を礼拝することを、最も大事にする集まりでなければなりません。また、教会は建物の事を指すのではなく、信徒たちが礼拝するとき、そして交わりをするとき、それらが行われているとき、どこであっても神様を信仰する者が集まっていれば、それが教会なのです。パウロは指導者たちに、教会について指導するにあたって、建物になぞらえて説明をします。教会は、「真理の柱であり、土台」であるという事は、建物全体が柱で支えられて、その柱が土台の上に据え付けられている。その教会の建物の様子を、私たちの信仰生活にたとえているのです。私たちの信仰生活を支えているのは、み言葉と言う名の真理の柱です。イエス様のみ言葉がなかったら、私たちの信仰生活を支えることはできません。また、そのみ言葉である真理の柱は、イエス様への信仰と言う土台の上に立っています。

 この当時の建物ですが、アテネのパルテノン神殿などを思い出すとよいと思います。まず目につくのは、高い柱の列ですね。その上に梁を載せて、屋根は切妻です。柱の一本一本は、さほど丈夫ではありませんし、倒れやすいのですが、このように多くの柱と梁を組み合わせると、丈夫になるとともに、柱も倒れなくなります。技術的には見た目より難しいです。柱はまっすぐに立てなければなりませんし、梁は柱に密着していなければ、そして、それぞれの柱が土台にしっかりと乗っていなければ、柱は建物を支えることが出来ないのです。また、当然ながら土台が沈んでくるようでは、柱は建物を支えることが出来ません。このように、狙い通りに「頑丈な建物」を建てるためには、柱同士が、同じ土台の上にあって、お互いに建物の重さをきれいに分担し続ける必要があります。 

 この建物を、教会を支える奉仕に置き換えて考えて見ましょう。教会は神の家です。ですから、土台がイエス様で、そして柱が奉仕者たちです。奉仕者たちは、決して背比べをすることはなく、ギリシャ建築の柱のように、全ての柱と調和を取ることで、重荷を分担し合って、神の家を支えるわけです。生ける神様の教会は、このように、人々の奉仕によって支えられなければなりませんし、その土台は隅の親石となったイエス様ご自身でなければなりません。


 ここで、パウロは真理について語りだします。

『3:16 信心の秘められた真理は確かに偉大です。』

 これを読んで意味が分かったでしょうか?私もわからなかったので、原語を見ました。「信心」と訳されている部分の原語は、信仰を指すことばです。そして「秘められた真理」とは、奥義(おうぎ:mystery)のことです。

「奥義」とは、真理をより深めた真理であり、なぞが深くて神秘的である様子を示します。また、「不思議」なことも奥義と呼びます。

パウロは、キリスト教の偉大な奥義(mystery)として次のように語ったのです。

『3:16~キリストは肉において現れ、/“霊”において義とされ、/天使たちに見られ、/異邦人の間で宣べ伝えられ、/世界中で信じられ、/栄光のうちに上げられた。』

 ここで語られているのは、「キリストの栄光」です。この当時は、「キリストである救い主とはイエス様の事である」と告白するのが、信仰告白でした。そして、キリストとはどのようなお方なのかを宣べるわけです。そして、どのような働きをされたのかを語ります。これは、パウロの証しでありました。キリストは、こんな方だとパウロが宣べたのは、まさにイエス様の事だったからです。キリストのご栄光がイエス様によって示されていたのです。それが、真理であり奥義なのです。


 初めに「キリストは肉において現われ」とあります。受肉のことです。神様は自ら望んで、罪を背負わせるために、肉体を持ったキリストをこの地上に与えられました。このキリストは神様の御子であり、そして神様ご自身でありました。これは、一度私たちの罪を受け取り、そしてその罪を自らが十字架によって贖うためだったのです。そのために、キリストは一度肉体をもって、この地上に来られたのです。そして、イエスと名づけられました。それが、奥義であり、不思議であります。参考までに「不思議」とは神様の名前でもあります。(士師13:18)

 次に、「霊において義と宣言され」とあります。これはイエス様が、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けたときに、天から声があったことから来ています。どの福音書にもありますが、ルカの記事を紹介します。

ルカ『3:21 民衆が皆バプテスマを受け、イエスもバプテスマを受けて祈っておられると、天が開け、3:22 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。』

 こうして、「イエス様は義なる方である」と宣言されていたのでした。また、イエス様の復活の出来事も、「罪から解放されて、最初に復活されたイエス様は、義なる方である」ことの宣言であります。

 そして、「御使いたちに見られ」とありますが、イエスさまのさまざまな場面で、御使いが現われていました。荒野で誘惑にあわれた後、そしてよみがえられてからも、御使いたちが現われました。つまり、イエス様は神ご自身であったとのパウロの証なのだと言えます。

 そして、「諸国民の間に宣べ伝えられ」というのは、イエス様への信仰は、ユダヤ人だけではなく、異邦人にも宣べ伝えられていることを示します。まさにパウロの伝道活動の事です。パウロが宣教しているのは、キリストの事であり、そのキリストとは、イエス様の事なのです。

 そして、イエス様への信仰は世界に広まって、「世界中に信じられ」るようになりました。パウロの活躍しているときは、まだローマ帝国やその属国の範囲でしたが、パウロはイエス様の教えは「やがて世界中で信じられる」と確信を持っていたのです。世界中の人々が「神の家」の一部となっていく。それが、パウロがイエス様から与えられた召命でありました。

 そして、「栄光のうちに引き上げられ」、というのは、イエス様が昇天されたことを示します。十字架の業から復活されただけではなく、栄光を受けて天に昇られたのです。これらが奥義であり、み言葉である教会の「真理の柱」とイエス様への信仰である教会の「土台」です。つまりイエス様への信仰とイエス様のみ言葉から離れてしまったら、神の家である教会はその形を維持することが出来なくなるのです。パウロは、キリスト教の奥義は、イエス様への信仰であり、そしてこのパウロが伝道するイエス様の福音こそが、キリストの教えであるとことを語っているのです。

 さて、私たちはイエス様を信じてクリスチャンになりました。決してパウロの教えていることは、難しくありません。救い主、キリストとは、だれか? イエス様なのです。そしてイエス様は天地創造の最初からおられました。(黙示録1:16) そして、天地創造の前からイエス様は、この救いの業である、神の家を作ることを計画されていたのです。そして、まだ誰も人がいないときから、これから作る「天と地の境目」に住むようになる人々に、永遠の命をもたらすために、自ら地上に肉体をもつ姿で降られました。そしてイエス様は、私たちを神の家に招き入れるために、イエス様自らが十字架にかかって私たちの罪を贖い、そして復活されたのです。被造物の一つとして降られてまでも、イエス様は私たちを救おうとしました。このイエス様の愛の計画に感謝してまいりましょう。