マタイ28:16-20

大宣教命令

2021年 516日 主日礼拝  

『大宣教命令』

聖書 マタイ28:16-20

 今日は、マタイによる福音書の最後にあたる「大宣教命令」から、お話します。来週がペンテコステですから、今日の聖書の箇所はちょうど今頃の季節の記事になります。

 

福音書は、「神様がお示しになった」み言葉ですが、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネとも、同じ証言や伝承を用いながら、それぞれ個性があります。福音書の最後の記事に注目すると、マルコは、昇天したイエス様ご自身の伝道ですし、ルカの書いた使徒言行録では、パウロのローマ伝道です。ヨハネでは、後日加筆されたと思われる箇所を除くと、イエス様がペトロに三度「わたしを愛しているか」と問われ、「わたしに従いなさい」と命令された記事です。

 

さて、今日のマタイの福音書の最後となるのが、イエス様の言葉『わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる』です。このみ言葉が、マタイによる福音書のクライマックスと言って良い箇所であります。私たちクリスチャンは、マタイによる福音書の著者が、神様に祈ってこの福音書を書いたときに、このみ言葉がその中心にあったと、受け止めたいものです。マタイによる福音書が新約聖書の最初のみ言葉として選ばれているのも、このメッセージ性にあるのではないかと思うくらいです。旧約を含めた聖書すべてにおいてみても、この箇所のメッセージは中心的だと思います。

 

今日の箇所は一般的に「大宣教命令」として知られています。牧師などの教職者としての献身をした者は、だれでもこの大宣教命令を受けて、応答をしたと言えます。私自身も、献身を決意したのは20代の時で時間はかかりましたが、イエス様が共にいてくださることを確信しながら、牧師の職を務めています。加えて、このご命令は、牧師などの教職者に限られて出されているわけではなく、広く信徒全体にも向けられています。神様の御用のために召されることは、決して特別のことではなく、いつでもだれでも起こる日常のことです。そして、どんな小さな御用であっても、その時はイエス様が傍にいて導いて下さいます。具体的に言えば、教会を祈りで支えたり、教会の活動を担ったりするご奉仕は、イエス様の大宣教命令への応答であると言えます。

私たちが、福音を伝えること、そしてその働きを祈り支える事がどうして必要なのかは、よく理解しておかなければなりません。それは、多くの人々が神様を求めているからです。多くの人が、神様を求めている自覚は無くても、何かに飢え乾いていることに気づいている人は多いはずです。そのような人々にイエス様のみ言葉を伝えていくことで、やがては、すべての人がクリスチャンとなる事をイエス様は望んでおられるのです。

 

イエス様は、神様を求めている者を私たちに出会わせてくださいますし、私たちが十分に働けるよう、それぞれの人に道筋を示してくださっています。ですから、私たちは、イエス様のご命令が何であるかを、その時々で読み取っていくことが必要なのです。

私たちがバプテスマを受けた頃を思い出すならば、私たちは、イエス様と出会ったとき、多くの人たちが寄り添ってくださいました。イエス様ご自身が、私たちの周辺の人々を通して私たちに寄り添ってくださっていたのです。そして、私たちは信仰に導かれました。その時の様に、私たちもイエス様に祈って、イエス様を求める人々に寄り添うその時が巡ってきます。そして、牧師や伝道者だけが伝道をするのではなく、教会全体で祈って働いていくからこそ、多様な人々が導かれます。なぜならば、教会がイエス様の体となっていくからです。イエス様がいろいろな人々を受け入れたように、教会も多様性をもつ色々な人々受け入れてきたからです。そして、祈りを担う者、イエス様のために働く者、そこにはイエス様が一緒におられます。

 

人は、外からは問題がなさそうに見えても、それぞれは問題を抱え、なかにはひどく悩んでいることもあります。いま普通に見えている人でも、心の中では嵐があり、吹雪の中で心が凍りそうになっているかもしれません。そういう時その方がイエス様を求めるならば、イエス様は、私たちをいよいよ用いてくださいます。その用いられ方は、その方について祈ること、そして言葉を交わすことから始まります。難しいことはいりません。イエス様は私たちを愛していますから、必要はイエス様が備えてくださるのです。

私たちがその人にかかわることで、私たちに伝道の働きをするようご命令なさっているのです。そして、イエス様を知らないままの人はいなくなることが目標です。もし、私たちがイエス様のご命令を受け止められずに、自分の関心のある事の方を優先するならば、イエス様は悲しむのでしょうか? それは、「いいえ」だと思います。誰にでもイエス様の働きに召される良い時。その時は、それぞれにあるのです。いつか、イエス様のご命令に従える時、そのご奉仕に道が備えられたことに気づくまで、祈って待てばよいと思います。

 

人を救うと言うことは、簡単なことではありませんし、すべてを背負うことでは、私たちは押しつぶれてしまいます。例えば、川や海でおぼれている人を見つけて、水に飛び込むまでは良かったものの、助けようとした人の方が犠牲になる事故は毎年のように起こります。とても不幸なことです。一方で、逆に、自分の安全を優先した結果何もしてあげられないのも、悲しいことです。このように、人を救うという事は、時として命がけになる事でもあります。ですから、自信がない事や、やったことがない事はしない方が良いとも考えられます。

 

また極端なケースでは、「助ける」ことをしていけない場合もあります。私の前の職場で、私は発電所等のエネルギー関係の設計や品質保証を担当していました。いつでも、建設工事現場に行くことになりますので、安全については毎年詳しい教育を受けていました。そこには、「助けに行ってはいけない」と言ったケースもあります。例えば、酸素が薄い空間での災害がそうです。似た話は、牧場のサイロがあります。サイロのなかで牧草が発酵すると酸素が薄くなるので、危ないのですね。最近ではサイロが使われなくなりました。サイロで、倒れた人を助けに行くと、その人も酸欠で倒れてしまいます。ですから、出来ることは限られています。決して無理をせず、救急車を呼んで、様子を覗きに行くことがないようにするなど、安全のために出来ることを確実にやっていく必要があります。

このように人を救うという事は、危険を伴う事もあります。だから、自身が出来ること以上の頑張りは、してはいけないのです。すでに危険な状態になった人を救うのは、それなりの装備を持った、訓練を受けた人に任せるのが正しいでしょう。もちろん、助けようとする心がけは尊敬しますが、無謀に見える行動は、慎まなければなりません。

今、物事が起こってからのお話をしましたが、その逆で、物事が起こる前についてお話したいと思います。事故等が起こってからは、特別な経験と装備を持った人しか対応できませんが、事故が起こる前には誰でも多くの対応が可能です。人を助けるという事は、なにも危険にさらされてしまった人を救出しに行くことだけではありません。危ない事態にならないように、寄り添う事が大変大事です。事故が起こらないように、それを回避するわけです。現場でいえば、例えば単独行動の禁止がそれにあたります。いつでも必要な時に助言したり、問題があったら応援を呼んだりできるように、二人以上でしか行動をしないわけです。この助けは、すごく有効です。たとえ新人が来ても、疑問や相談に答えてあげ、必要があれば教え、そして危ないなら一声「あぶない」と声を掛けると、すぐにその行動が身に着きます。そして、新人自身も、仲間を助け、守ってくれるパートナーになっていくのです。水の事故や建設現場を例にお話しましたが、こういう日常の中で寄り添うという働きであれば、私たちにも無理なくやっていけると思います。

ところで、皆さんは今日のイエス様の宣教命令について、どのように受け取ったでしょうか? 伝道者のようにみ言葉と共にメッセージを語り、人々をイエス様のところに導くということを考えられたと思います。イエス様の十一弟子だったら、それが妥当なのだと思います。もちろん、教職者もそうだと思います。しかし、一般の教会員も同じなのでしょうか? 私は、一般の教会員への宣教命令も同じだと思います。しかし、それぞれがイエス様から頂いている賜物を用いて、それぞれの出来る事をやればよいのだと思います。たとえば、ある人の問題を解決することは出来なくても、いつでも声を掛けられる。そのような関係を保つことが、命令されているのだと思います。そして、その人に寄り添っていけるような関係につながれば、あとはイエス様にお委ねするという事だと思います。イエス様を仲介者として、自分の周りの人たちと人間関係を作っていく。そうすれば、だれもが自然と救いに導かれていくのです。

 

「十一人の弟子たち」は、イエス様に言われた様に、ガリラヤの山に向いました。塵尻になっていたのに、良く集まったと思います。十二弟子はエルサレムに入城するときは、ワクワクしながら、これから起こることを楽しみにしていました。しかし、イエス様が祭司長たちに捕まると、逃げていたからです。十字架の出来事にも同行することが出来なかったですし、イエス様が墓に入れられた時も、イエス様が復活した時も墓に来ていませんでした。そんな十一人の弟子たちが、イエス様に会いに来たのです。17節を見ますと、イエス様を見て弟子たちは「ひれ伏し」(προσκυνέω:礼拝するとの意味もありますが、ここではひれ伏したのだと思われます)ましたが、まだ疑う弟子たちもいたようです。

イエス様は、まだ疑っている弟子たちに向かって、大宣教命令をされたのです。このことは、まだ、少し疑っている弟子たちをもイエス様の伝道計画に取り込まれたことを意味します。つまり、弟子たちは自分の意志でこのガリラヤの山に登ってきたのではなく、イエス様のご意志によって、弟子たちは導かれたのだと思われます。

『あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい』と、地球規模の命令を下さるイエス様。とても、今この時点でイエス様の復活を疑っているような十一弟子たちが受けられる命令とは思えません。しかし、だからこそ、イエス様はこの命令の前に、キリストはご自分の権威について説明し、そして

『いつもあなたがたと共にいる』

とお約束してくださったのです。

 

 イエス様が、ご自身の権威について説明しました。それは、「私の命令に服従しなさい」とのご意志であると思われます。もはや弟子たちには、イエス様の権威の下に従う以外の選択はないのです。こうして、弟子たちが働くその時が来ました。

 

そして、もう一つ大事なことがあります。弟子たちを勇気づけるために、イエス様が『いつもあなた方と共にいる』と約束された事です。

なぜこの言葉が必要かと申しますと、イエス様が下されたご命令は、弟子たちにとって手の届かないような ご命令 だったからです。

イエス様は、弟子たちにその大きな働きを任せていますが、イエス様ご自身がいつも弟子たちを支えてくださいます。この宣教命令による弟子たちの働き。そこにはイエス様が一緒におられます。イエス様が弟子たちの足りない部分を補いながら、イエス様ご自身が人々を導かれるのです。宣教命令は、弟子たちの力によるのではなく、イエス様の力によって進められる伝道の業なのです。

 

『あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい』

 

この命令に従った弟子たちの働きで、日本に住む私たちにも福音が届きました。十一弟子たちはこの命令に従い、国外まで出て行きました。その弟子たちに救われて弟子となった者たちはさらに別な国へ。このようにして福音は拡大していき、すべての国民、民族に向けられていきました。

 

 私たちも、聖書を通してその大宣教命令を受けていますから、この経堂の地区でその一端を担っています。イエス様は、その伝道の働きを十分に出来るから、私たちに命令をされているのではありません。むしろ、その御用にあたる十分な力があるわけではありません。それでも、イエス様は私たちを用い、そして私たちの足りないものはイエス様が準備してくださると約束してくださっているのです。だから、私たちは出来ることをやれば、後はイエス様が備えてくださるのです。日本には、キリスト教の神様のことを知らない人々がまだまだたくさんいます。その日本中にキリスト者が溢れるよう、イエス様から与えられた命令のために、私たちが出来る働きが与えられるよう祈ってまいりましょう。