1.二人の女のたとえ
この箇所は、新約聖書でただ一度だけ用いられている、旧約聖書の寓喩(アレゴリー)的解釈です。この解釈の仕方は中世のキリスト教会において盛んでありました。「字義通りの解釈」は歴史的な真実を語っており、「アレゴリー的な解釈」は霊的な真理を語っている とされました。つまり、直接的な事を読み取るほかに、隠されている意味があるとされていたのです。しかし、宗教改革者マルティン・ルターはアレゴリー的な聖書解釈を退けました。ルターによれば、聖書のメッセージを「行間」や「言葉の背後」から探し回る必要などはないとしたからです。しかし、現代でも、アレゴリー的な解釈は用いられます。「恣意的な解釈」になることを避けながらであれば、ルターの批判には当たらないと考えてよいからです。
ガラテアの信徒への手紙 のこの箇所での「今のエルサレムの奴隷はハガルの子孫である」というパウロの視点は、自由すぎるアレゴリー的解釈であり、その結果が恣意的なものになっています。そもそも、旧約聖書は、「ユダヤ民族はサラの子孫である」と教えているのです。
この箇所に対するパウロの考えは、整理してみるとこうです。アブラハムには二人の妻と二人の息子がいました。サラは自由人であり、それゆえ彼女の息子であるイサクも自由人でした。それに対して、ハガルは女奴隷であり、それゆえ彼女の息子であるイシマエルもまた奴隷でした。これら息子たちの誕生に関しても両者の間には明確な違いがありました。イシマエルは「肉によって生れた」のに対して、イサクの誕生は全く奇跡的な出来事でした。イサクは神様の「4:23~約束によって生れた~」のです。
ここまでのパウロの解釈には、あまり異論はないと思われます。しかし、これ以上に旧約聖書の出来事を恣意的にキリスト教信仰に適用しようとすると難解なものに変わってしまいます。パウロの考えかたは次のようになります。ユダヤ人たちは、キリストを捨てて律法の下敷きになってしまいました。こうユダヤ人を定義することで、彼らはハガルの奴隷としての身分を(霊的な意味で)受け継ぐ立場に自らを置いたことになります。彼らは「キリストにおける自由」を退け、自発的に「律法の奴隷」となったのです。
それに対して、キリスト信仰者たちは『4:26~天のエルサレム~』で、神様の子どもとしての自由を享受していたのです(4章26節)。
ここで、注意しなければならないのは、イシマエルとイサクの違いは、持って生まれたものであって、彼らが選んだのではないことです。そして、イサクが自由人の子であるから正統であり、イシマエルが奴隷の子だから庶子であるとの考えも、差別的であります。個人の努力や選びの結果でないことをことさらに言うことは、現代社会にはそぐわないと言ってよいでしょう。そして、律法に下敷きにされているユダヤ人たちが、律法の奴隷であることは、正しい見方だと思います。キリスト者は、律法から自由である。このことも言えます。つまり、比喩としてつながるところは、律法に対して自由かどうかを、生まれた身分が自由であったかどうかとの比較に置き換えたこと一点だけであります。
また、唐突にシナイ山とハガルが結び付けられています。これはアラビア語で石や岩を意味する「ハジャル」という言葉が「ハガル」に類似しているからである、という説もあります。このように駄洒落で構築する解釈ならば、恣意的であるとの批判は仕方がないと思われます。ですから、ここでパウロは、「神様との約束によって自由となった」そのことを、旧約を用いて力ずくで解説したのだと思います。
4:27に引用されているのは
イザヤ『54:1 喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。歓声をあげ、喜び歌え/産みの苦しみをしたことのない女よ。夫に捨てられた女の子供らは/夫ある女の子供らよりも数多くなると/主は言われる。』
この箇所自体は、イサクとイシマエルと直接に関連するものではなく、切り取ったものです。聖書のそれぞれ別々の箇所にある文章を互いに組み合わせるのはアレゴリー的解釈によくあります。それだけ、自由に解釈できるわけですから、恣意的な解釈になりやすい解釈の仕方であると言えます。
このように見てくると、アレゴリー的解釈に基づくこの聖書の解釈は信憑性がないとでしょう。しかし、そうとも一概には言えません。神様は、ガラテアの信徒たちだけではなく私たちをも聖書の記述を通して、多様な解釈を許容しつつ、教えようとしているのです。しかしだからといって、みながそのような解釈に走ったら、収拾がつかないことは明らかです。
2.奴隷となってはいけない
『 5:1 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。』
この節は、前の章からの続きになっています。
私たちは、自由人の女から生まれた子であり、イサクのように約束の子どもです、というのがパウロの主張です。これは祝福されていることを示します。父なる神様は、御子を私たちに与えくださいました。キリストは私たちのうちに生きています。にも関わらず、ガラテヤの人は、「これをしなさい」「あれをしなさい」という律法によって、神様に認められようと、逆戻りしてしまったのです。そこで、パウロは、私たちが自由を得るために、キリストが私たちを解放されたのだ、と話しました。
信仰というのは、祈り、礼拝、伝道というかたちとなって現われます。しかし、私たちいつのまにか、神様に認められるための手段となってしまいます。そのような手段によって、神様に喜ばれると思ってしまうのです。ですからそこでパウロは、「しっかりと立ってください」と勧めているのです。